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無意識が証言する時代の空気――梅津庸一キュレーション展「絵画の見かた reprise」レポート 中島水緒

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reprise 【名】 《音楽》〔主題の〕反復、再現 〔行為の〕繰り返し、再開 (「小学館 プログレッシブ英和中辞典」より)

 2021年1月、東京で二度目の緊急事態宣言が発令された。ふたたびの「非常時」の到来。そのさなかで開催された梅津庸一による企画展「絵画の見かた」が「反復」「再開」を意味するrepriseの語を伴っていたことは、あまりにもよくできた偶然の符牒と言わざるをえない。
 多くの人が肌で感じている通り、一度目の緊急事態宣言発令時のような緊張感が薄れているとはいえ、美術館やギャラリーはどこも鑑賞者を迎える体制を整えるべく神経をすり減らしている状況だ。まったく収束の気配を見せないコロナ禍において、梅津による2021年最初の企画展「絵画の見かた reprise」はどのような滑り出しを見せたのか。
 1月29日の夜、筆者が会場である神楽坂の√K Contemporaryを訪れたところ、平日の夜にも関わらず、会場には絵画に見入る鑑賞者の姿が散見された。しかも、閉館間際まで客足が途絶えることはなかった。展示に先駆けて『美術手帖』12月号が梅津の監修による「絵画の見かた」特集を組んでいたせいもあり、耳目を集める素地が整っていたということだろうか。いや、理由はそればかりではないはずだ。緊急事態宣言が発令されて間もない都下のギャラリーで、「絵画の見かた」が多くの鑑賞者を集めたことはひとつの注目すべき事件である。会期最後の二日間にはじつに500人もの観客が訪れたという。本展はスター作家を特別扱いする類の展覧会とは一線を画したものなので、特定の作家を目当てとする鑑賞者ばかりが押し寄せたとも思えない。素朴な所感を恐れずに言えば、リアルの場で絵画を鑑賞すること、色調や筆触やマティエールの妙をじかに味わうことの価値が、コロナ禍だからこそ強く求められ、本展がそうした鑑賞者の無意識の願望に応えたということなのではないか。(fig.1)

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(fig.1)展示風景 Photo by Fuyumi Murata


 筆者が梅津を取材するのは、昨年6月に開催された「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」以来、半年ぶりである。「フル・フロンタル」については「レビューとレポート」15号にレポートを寄稿したのでそちらをご覧いただきたい。

 「絵画の見かた」の出品作家の何人かは「フル・フロンタル」と重複する布陣であるが、「絵画の見かた」はあるひとつの特性において「フル・フロンタル」と大きく見え方を異にする。その特性とは、章立てによる構成とキャプション類の説明をいっさい排したことだ。
 総勢30名による約100点もの作品は、√K Contemporaryの3つのフロアに不可視の秩序に基づいて展示されており、展示の意図は鑑賞者が能動的に読み解かなければならない。「フル・フロンタル」が章立て・テーマ別に作品を分類し、エンターテインメント性の高い回遊構造で動線を綿密に組み立てて鑑賞者を楽しませたのとは対照的である。明快な分類を避けた「絵画の見かた」の展示構成は、外在的な文脈や言語情報に頼らず、ただひたすら作品と向き合うことを鑑賞者に要請する。無添加で絵画をとくとご覧あれ、というわけだ。「絵画の見かた」という教科書的・啓蒙的なタイトルとは裏腹に、ここには初心者に手取り足取りの親切さがない。ガイドを求めるのであれば、鑑賞者は「副読本」として位置付けられた『美術手帖』の特集号をひもとくしかないのだが、急いで書き添えておかなければならないのは、本展自体は『美術手帖』が公式にバックアップした展覧会ではなく、梅津が実行委員に声がけして行った純然たる自主企画展だということである。展覧会と『美術手帖』特集の関係については、「リアル展覧会/誌上展覧会」という異なるメディアでの実践として両者を捉えたほうが適切なのだろう。
 では、雑誌の特集とリアル展覧会を比較したときに浮き彫りになる「リアル展示ならではの価値」とはどういったものか。梅津によると、絵画の実存が脅かされているいまだからこそ、オンラインで代替できない価値を展覧会で示したかったのだという。ひとことで言えばそれは、リアル展示の物理的条件を再考することにほかならない。運送会社のエキスパートによる作品輸送、プランを実現させるまでのギャラリーとの交渉、梅津いわく「白いキャンバスに一気に絵の具をほどこすような緊張感で」行われた夜を徹しての設営作業――。「物質」としての作品はもちろん、あらゆるレベルの労働やコンフリクト、人的リソースを抱え、ときにはディレイを伴いながら長期の準備期間を経てようやく展覧会は実現する。軽さに対する重さ、あるいはインスタントなものに対する遅さ。こうした要素はときに足枷にもなるが、どうやら梅津にとっては、極めて現実的な問題をはらむ展覧会構築の過程こそがあらためて重要な要素に感じられたようなのだ。

 こうした背景を踏まえると、どこか絢爛な趣きのあった「フル・フロンタル」に比べ、「絵画の見かた」は「絵画を見せるための諸々のシステム」と「絵画を見る人」の関係性をより深めて思考した内省的な展覧会と見なせるだろう。展覧会の内容を順繰りに紹介していきたいところだが、なにぶん物量の多い展示であるため、本稿ではポイントを絞ってレポートしていきたい。
 まず、会場である√K Contemporaryの空間に触れておこう。宇宙空間をイメージした展示室は「スペーシー」というコンセプトを持ち、壁も床もどこか無菌室的な清潔感に満ちた白で統一されている。それぞれの部屋は細長く、基本的にフロア内に仕切り壁はない。そのため、鑑賞者は部屋の奥に歩みを進めるごとに、ある傾向のもとに集められた作品群(クラスタ)がグラデーションのようになだらかに作品の傾向を推移していくさまを体感することになる。展覧会は1階→2階→地下1階と続くので、この動線に沿っていくつかの作品を紹介しよう。


1階展示室

 最初に鑑賞者を出迎えるのは絵画作品ではなく、kishi yumaの映像作品《告白》(2021)である(fig.2)。映像のなかの人物はフランシス・ベーコンの絵のように像が溶解しているが、絵画作品を眺めている場面のようであり、その姿は眺める対象ともども解像度を不安定に揺らがせている。画像を演算処理するという観点から考えたとき、AIと人間とで「絵画の見かた」にどのような差異が生まれるのだろうか。人工知能の視点から「絵と絵を見る私の関係性」をモデル化したような本作は、展覧会の物理的条件や作品の即物的な価値に目を向けさせる「絵画の見かた」をメタレベルから――さながら宇宙船の外にいる異星人の目で――批評するものであり、展示のイントロダクションとして挑戦的な意義を担っていた。

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(fig.2)(右)kishi yuma《告白》(2021) (左)島田章三《初冬》(1975) 
Photo by Fuyumi Murata


 梅津によれば「絵画の見かた」は大作を目玉作品としない見せ方を心掛けたというが、それでも1階展示室の中央を占めた梅沢和木の幅4メートル近い大作《Eternatus Core》(2019-2020)に触れないわけにはいかない(fig.3)。この画面で生成されているのは、鑑賞者をビッグデータの闇にダイブさせるようなめくるめくイメージの奔流だ。ネット上に溢れるイメージのサンプリングはいつもの梅沢の手法だが、飽和しそうな情報量を下支えしているのは絵画の物質としての重厚感であることが改めて確認できる。加えて、作品にみなぎる禍々しさが√K Contemporaryのクリーンな展示空間で異彩を放っていたことも印象的だった。

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(fig.3)(左奥)梅沢和木《Eternatus Core》(2019-2020) 
Photo by Fuyumi Murata


 梅沢の大画面の向かいには、石井海音、西村有未、たんぱく質、ペロンミによる油彩作品とドローイングが並ぶ(fig.4)。彼女らの作品はテン年代を牽引したキャラクター表現の系譜と言えるだろうが、安易なカテゴライズに終始しないよう注意が必要だ。作風の違いにはそれぞれの出自も関係している。京都市立芸術大学出身の西村の絵画はマティエールの表情の変え方や構図の「決まり具合」に闊達さがあり、正規の美術教育を通過した画家ならではの技巧がある。他方、西村と傾向を同じくするようでじつは対照的なのがペロンミのドローイングだ(fig.5)。稚拙さと暴力性が入り混じる描き殴りのようなドローイング群はコントロールを今にも失いそうな不安定さがあるが、描線の不安定さは少女の表情(とりわけ瞳の描写)の不安定さと同期しており、類型化しがたいキャラクター表現の可能性を潜ませているように思えた。

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(fig.4)(左)石井海音《room2》(2020) (右)西村有未《焚火を超えて溶解する、雪娘。》 周囲にペロンミ、たんぱく質のドローイングが並ぶ。
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(fig.5)ペロンミによるドローイング群(2020)※画像は2階の展示風景より
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 1階奥の右手を飾るのは梅津による《ヌーディストビーチ》(2007、2021)である(fig.6)。この作品は、真珠湾攻撃で戦死した梅津の大叔父の記憶に絡んで当地の浜辺をモチーフとしている。幻想的個人史とも言うべき本作は今年に入って久々に加筆され、色褪せた鈍色の風合いを帯びてふたたび鑑賞者の前にあらわれた。背景のヤシの木は梅津が近年取り組んでいる陶芸作品でも繰り返しモチーフとなっており、本展のいたるところでアクセントを効かせている。ひとまずここでは時を超えてヤシの木が梅津のなかで重要なモチーフとなったことに着目し、近年の陶芸作品については後ほど言及したい。
 また、1階の突き当たりに飾ってあった岡鹿之助の花を描いた油彩作品《三色菫》(1965)が、小品ながらにマティエールの滋味を湛えた一点であったことを付け加えておこう。

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(fig.6)(右)梅津庸一《ヌーディストビーチ》(2007、2021) (左)梅津庸一《プレッツェルシップ》(2020)
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2階展示室

 絵画のことを日がな一日考えつづけ、息を吸って吐くように描き続けている人間の目には、はたしてどんなけしきが映っているのだろうか? そんな想像を抱かせるのがドローイングのコマ撮りで構成された安藤裕美によるアニメーション作品《絵画の見かた》(2021)だ(fig.7)。パレットに絵の具をたらしナイフでならす動作、画家の目のアップ、そして室内で制作に没頭する画家の姿。パープルーム予備校での日常をそのままアニメーション化したとおぼしき作品だが、絵画制作のトポスであるアトリエがモノクロアニメーションの覚束ない画面遷移によってシュルレアリスティックなヴィジョンへと変換されるさまが興味深い。

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(fig.7)(右)安藤裕美《絵画の見かた》(2021)
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 ところで、シュルレアリスムは本展を読み解くひとつの重要な鍵である。シュルレアリスムと言ってもここで指すシュルレアリスムは西欧由来のソフィスケートされたそれではなく、日本人画家が独自に消化した幻想絵画の系譜のことだ。2階展示室には小野理恵、高松ヨクという二人の画家がシュルレアリスム風の具象絵画を出品しているのだが、この2名はいわゆるファインアートの文脈ではほとんど顧みられない存在と言ってよいだろう。とりわけ、2017年に死去した高松ヨクは、梅津がネット上で作品を知ったことで今回の出品に繋がった(fig.8)。B級で時代錯誤な幻想絵画と言ってしまえばそれまでだが、怪しげな精神世界のヴィジョンと釉薬をかけた工芸品を思わせるヌルリとしたマティエールが不思議と尾を引く。梅津もまた、以前の自分はこの手の傾向の作品は好きではなかったが、近年になって、高松のような画家の作品もきちんと評価をしていくべきなのではないかと考えを改めるようになったそうだ。いったいどのような理由からこうした心境の変化が起こったのだろうか? その答えは梅津のなかでもまだ明快に整理できていないようだが、30代の後半に差し掛かり「死」や「肉体の衰え」を意識しはじめたことが少なからず関係していると語ってくれた。また、コロナ禍だからこそシュルレアリスム系の作品が気になるのだと言う。日本の近現代美術における亜流シュルレアリスムと幻想絵画の系譜は、おそらく多くの「無名」の画家たちによって探求されているにも関わらず、いまだ文脈が整理されていない領域のひとつと言えるだろう(「フル・フロンタル」展における「ダークファンタジー」の章が雑多な様式の寄せ集めだったことが思い起こされる)。西洋至上主義のファインアートが抑圧しがちな「恥部」もしくは「暗部」としての日本の亜流シュルレアリスムをどう評価していくかは、梅津ひとりに限らず今後の私たちの課題となるだろう。

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(fig.8)(左)高松ヨク《girl in the darkness》(2000)、(中)高松ヨク《night train》(2012)、(右)高松ヨク《月のクルーズ》(2015)
Photo by Fuyumi Murata


 さて、1階展示室に引き続き2階展示室には、ヤシの木をモチーフとした《パームツリー》のシリーズをはじめとする梅津の陶芸作品が所々に配されているのだが、その展示の仕方には明らかに絵画作品とは別種の意図が読み取れる。藤松博の絵画の足元に脇侍のように添えられるなど、梅津の陶芸は主役としてフィーチャーされるのでなく、あくまで装飾的・副次的に扱われているのだ(fig.9)。
 ここには「収集家が作品を家に飾るように、あたかも調度品を設えるかのように絵画を展示する」というキュレーションの狙いがある。いわば、美術館やギャラリーといった制度的な場で作品を展示する近代以降の慣習に対するアンチテーゼである。この試みは本展においては部分的にしか行われていなかったが、個人史と身体性のしるしを宿しつつも展示環境にまぎれて「調度品」たらんとする陶芸作品は、近代以降の制度をすりぬけるオルタナティブな作品の在り方を象徴しているかに見えた。

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(fig.9)梅津庸一《パームツリー》(2020)
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地下1階展示室


 エレベーターで地階に降りると、1、2階とは打って変わってコンクリート打ち放しの薄暗い空間が広がる。本展中、もっとも「死」の気配を濃厚に漂わせるセクションである。
 展示のクライマックスを飾る作品が木下晋の鉛筆画大作《願い》(2019)と《生命の営み》(2019)、そして弓指寛治のインスタレーション《挽歌2020》(2021)であることは論を俟たないだろう(fig.10、fig.11)。絵を描く行為がそのまま祈りに通じ、生と死という普遍的なテーマに連なるという意味で、両者の作品には共通点がある。特に、櫓風に組まれた足場に絵画を立て掛け、大量の絵馬を壁に吊るした弓指のインスタレーションは、奥に歩を進めることを躊躇わせるほどの圧迫感を展示室の最深部につくりだしていた。

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(fig.10)(左)弓指寛治《挽歌2020》(2021)、(右)木下晋《生命の営み》(2019)
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(fig.11)弓指寛治《挽歌2020》
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 仰々しく仕掛けられたクライマックスよりもあえて最後に紹介したいのは、同じく地階に展示されていた海老澤功の作品《1004》(1975年)である(fig.12)。海老澤は1956年生まれ。新宿美術学院で長く講師を務めており、卓越したデッサン力と指導力で東京藝術大学をはじめ美大合格者を多数指導 してきた。筆者はかつて、茅場町にあったGallery≠Gallery(ギャラリーノットイコールギャラリー)で2006年に開催されたグループ展「Powers of ten」に海老澤が出品した際、短いテキストを寄稿したことがある。そのときの海老澤の出品作は家族を描いたミニチュアの写実絵画であったため、「絵画の見かた」に海老澤の浪人生時代の現在とはまったく作風の異なる抽象画が展示されていることに非常に驚いた。梅津が海老澤の作品を「安井賞の受賞作にありそうな作品」と評していたのには思わず笑ってしまったが、たとえ古臭くローカルに見える側面があったとしても、そこには確かに「良い絵画」を模索する青年期の画家ならではの格闘の痕跡が刻まれており、不思議と飽きさせない画面の魅力がある。「受験絵画」の攻略法と功罪とを知り尽くした「伝説の講師」もかつては「学ぶ者」であり「教えられる者」だった。極東の島国で連綿と続く受験絵画の歴史は、このようなひとりの浪人生の習作も含み込みながら現代に受け継がれているはずだ。
 ちなみに、西村有未は海老澤の新美の教え子である。あからさまな影響関係が読み取れなくとも、絵づくりの基礎にまつわる技術が継承されている可能性はある。たとえば、本展に出品している島田章三が愛知県立芸術大学で長く教鞭を執っており、その少し下の世代にあたる櫃田伸也もまた愛知県立芸術大学で奈良美智らを教えていた歴史などを思うと、世代的には奈良チルドレンでもある本展の若き参加作家たちへの隔世遺伝的な影響関係も検証したくなってくる。作風の表層的な類似を越えて、作家同士の影響関係や継承の軸を考察すること。これもまた、ありうべき「絵画の見かた」のひとつの読み解き方である。


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(fig.12)(左)海老澤功《1004》(1975年)
Photo by Fuyumi Murata


「絵画の見かた」とは


 以上、「絵画の見かた」の展示内容を駆け足で辿ってきた。テン年代以降のキャラクター表現からモダニズム絵画の発展的継承、さらには日本独自のシュルレアリスム文脈の再発見まで、ひとつの受け皿にはおさまりきらないほどの多様な表現が本展には集結している。まっとうなキュレーターであれば回避するであろう異種混淆ぶりは、明らかに「フル・フロンタル」展よりもパワーアップしていると言えるだろう。
 その意図について梅津は次のように語っていた。
 「美術館ではできないことをやった。「絵画の見かた」は批評的な視座を強く持つ展覧会でこそないが、アマチュア絵画、受験絵画も含め、メインストリームには上がらない表現を数多く集めている。ここで、言語化できない不純物のような存在をきちんと提示したかった。まとまりはないかもしれないが、コロナを経た2021年現在の絵画表現の現状報告にはなっているのではないか。」
 「絵画の見かた」は確かに文脈的には未整理な部分が多い展覧会かもしれない。だが筆者の目からすると、たとえば本展におけるシュルレアリスム系絵画の再発見が果たす意義は大きいのではないかと感じる。コロナ禍だからこそ避けがたく向き合わなければならない「死」の問題や無意識の領域が、梅津個人の関心に留まらず、世代や様式を越えた作り手たちの問題として浮かび上がっているように思えるのだ。
 「これまで自分がやってきたような制度批判だけでは足りない。絵画の魔術的側面も軽視できないと考えるようになった」という梅津の言葉がインタビュー中でもっとも印象的だった。制度に牙を向き撹乱を仕掛ける青年期の衝動から内省を経て成熟の段階へ。絵筆をとり「繰り返しreprise」の制作に挑む画家たちの無意識の集合体は、いまは正体不明のままにクラスタを成しているとしても、時間をおいて振り返ったときに貴重な時代の証言となるはずである。


中島水緒(美術批評)

トップ画像 Photo by Fuyumi Murata

レビューとレポート第23号(2021年4月)