マンガ映像化!にまつわるエトセトラ

漫画作品を探していると「映画化決定‼︎」とか「実写ドラマ化‼︎」とかの宣伝文句をしばしば見かける。
こうしたコピーに、前々から違和感を感じていた。今も感じる。

《映像化決定‼︎》のコピーは、漫画リーダーにおいて、そこまで重要ではないと思うのだが、とてもとても注目されている気がする。
この違和感を言葉にしたいので以下に書く。


漫画(紙メディア)と映像(動画メディア)は、似て非なる。

漫画は、ユーザーが自分でページをめくらないと進まない。小説と同じく、読者の想像力で時間が流れる。
スポーツ漫画は分かりやすいが、テニスのワンストロークで100字くらい平気で喋る。ピストルが火を吹いてから、「よけてーっ!」と叫び、それで回避が間に合ったりする。そんなことは実写化できない。漫画の時間感覚は、現実には存在しない。

対して、映像は自動的に流れていく。ユーザーはそれを眺めていればよく、本のように立ち止まったり振り返ったりは原則的にできない。あえて言えば、映像は読者の想像の余地が狭く、受動的なメディアだ。

なので、漫画を映像翻訳すれば、原作が持っていた時空間の感覚(空気感)は、原理的に失われる。
"翻訳"には巧拙があり、漫画と映像のどちらが優れているということではないのだが、両者は全く別物としてある。
だから、《映像化決定‼︎》と言われたところで、「そうなんだ!よかったね!」以上の感想は、突き詰めた漫画リーダーにおいては出てこない。

「漫画」が好きなのではなく、その物語そのものが好きな人や、「漫画」だけでなく「映像」(俳優や演技や映画)にも興味がある人は、映像化に心躍るかもしれない。
ただその場合も、対象作品を楽しむバリエーションが増えるだけで、既に作品を知っている人は嬉しいかもしれないが、新しくその作品に触れる人にとってはどうでもいいはずだ。


あるいはこういうことだろうか?
《映像化決定‼︎》とは、「この作品は映像クリエイター業界でも認められた、おもしろくて深みのある作品ですよ!」という"お墨付き印"なのだと。

確かに、生み出される続ける作品のうち、映像化されるのはごく一部。狭き門をくぐり抜けた、珠玉であると言えるかもしれない。
とはいえ、面白い作品であることは、映像化の十分条件ではない。
映像化の時間に収まるボリュームを持つ必要があるし、業界のトレンドや映像化のしやすさ、原作者の意向など、様々な要因がある。
映像化されるということは、面白い作品である蓋然性が高いかもしれないが、漫画の面白さとイコールではない。面白い作品・興味深い作品を探すのであれば、各種の漫画賞や、批評家の評価が優先されるべきだろう。

だのに、シーモアとかの電子マンガ販売サイトには、「メディア化」という検索タグはあれど、「文化庁メディア芸術祭認定」とか「手塚治虫文化賞ノミネート」とか「文化人推薦」だとかのタグは見ない。(あったらゴメン)

私が《映像化決定‼︎》に感じる苛立ちとは、それが不当にデカい顔をしている、と思われるところにある。
映像化されたからといって、その作品自体が変わるわけでもないし、漫画業界内の評価より、テレビ・映画業界の権威が高くなっているのはおかしい。

それは次のことを暗示している

  1. 漫画コミュニティ内に、有効なオーソリティ・システム(権威)が確立されていない

  2. 映像化というマーケティングの成功こそが、より大きなパワーを持っている

映像化で誰がいちばん喜んでいるかといえば、版権元である出版社ではなかろうか?
ライセンス料をもらって、大々的なPR(宣伝)をしてもらえるのだから。
漫画界という狭い領域から、マスメディアに羽ばたくまたとない機会。(経済規模でみたら、国内映画市場より国内漫画市場の方が大きいみたいだけど)。

まぁ漫画作者も、自作品が愛を持って再翻訳され、動きや声を当てられるのは、興味深く喜ばしいだろうし、制作へのモチベーションが上がるとすればファンとしても共に喜べることだ。

ただ、それを差し引いても《映像化決定‼︎》を高く喜びすぎなのではないのかという気がする。


前段に、「文字メディアはより能動的で、映像メディアはより受動的だ」と述べた。
付け加えれば、映像メディアの強みはバズりやすさにもあると思う。

映像は、文字と違い時間を支配する。それは共時性があるということ。
だから映像は他人と共有しやすい。
週間ドラマや週間アニメは翌日の話題に出しやすいし、映画館なら直接的に「同じ感動」を味わった相手が見える。

サブカルチャーが、ニッチな趣味=自己の孤独な感受性を埋めるものから、ポップな趣味=内向的な自分の趣味を他者と共有するツール、になって久しい。
ある面では、アニメは繋がりを作るためのツール。同じ物語を他者と共有して、コスプレや二次創作で自己表現をし、ネットワークを広げていくツールになっている。

漫画は、映像に比べると絶望的に共時性が弱い。漫画を読むというのは個人的な作業であって、漫画の世界をどう読んだか/その世界をどう構築して、キャラクターにどんな声を当て、どんな時間感覚を持ったか、読者間でも別物になっておかしくない。

嫌な言い方をすれば、《映像化決定‼︎》とは、その作品が「動員ツール」としての価値が高まったことをアピールしているのかもしれない。
その作品を使えば、より多くの人と繋がれて、より支配的に振る舞えるよと示す印。これから人気になるから、今見とかないともったいないですよという印。
すごくうがった見方ではあるけれど。

noteは前向きなメディアプラットフォームであると思っているので、最後はもう少し前向きな結論を落としてみよう。

前段までに意地悪く書いたが、私の論理展開の背景には、次の社会構造が隠れてあるのではないか。

  1. マンガというメディアには、少なくとも2つの楽しみ方がある

    1. その作品の物語世界を、作者独特の表現を楽しむ場として、個人的に享受する楽しみ方(属人的価値)

    2. その作品の世界観やメッセージやキャラクターを通し、他者との繋がりを作っていく楽しみ方(ソーシャル的価値)

  2. 今においては、ソーシャル的な楽しみ方が隆盛している

    1. 自分は属人的楽しみ方をより深めたいと思っているが、ソーシャル的楽しみ方に押されているので、上に書いたようなやっかみの意見が生まれた

      1. 果たして属人的価値よりソーシャル的価値が劣っているかと言えば、そういうわけでもない気がする。ので、自分のやっかみは正当とは言えない気がする

        1. とは言え、「自分に合った作品」(属人的に楽しむための作品)を探したいのであれば、「売れ筋」「メディア化」として喧伝されている作品(ソーシャル的価値にフォーカスして宣伝される作品)ではなく、自分の趣味に合った目利きの人が進める作品や、漫画賞で選定された作品を覗いてみる方が、発見があると考えられる

つまり、自分が何を求めているかによって、注目すべきタグは変わるはずだよねという(穏当な)ライフハック。それがこの考察から導かれる、当座の結論になる。


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最後までご覧いただきありがとうございました!
「当座の結論」を出しましたが、なぜ「今においては、ソーシャル的な楽しみ方が隆盛している」のか?という部分。気になります。
一つ考えられることは、今は動員の時代で、数が正義・売れているものが正義という価値観が広がってあることが考えられます。つまり、時代がソーシャルだということ。
そうすると、上で述べたソーシャル的な楽しみ方の隆盛は、何も漫画界隈にとどまる話ではなく、あらゆるコンテンツ・商品でも同様ではないか、という気がしてきます。
そもそも、物語の価値とはどのようなところにあるのか?

話題があまりに変わるので今回は触れませんが、機会があればまた考えてみようかと思います。
何かヒントになる本や意見や情報あれば、ぜひ教えてくださいmm

こういう、どうでもいいことを、時間をとって考えてみる機会って大切ですよね。
今回の議論は、宇野常寛さんの論考に影響を受けている自覚があるので、もしもうちょっとまともな文章を読みたい人がいれば、彼の著作をあたってみることをお勧めします。↓とかね。

改めて、ご覧いただきありがとうございました!

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