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オッドタクシーから考える、私が物語に求めるもの🚕

はじめに

この前に人に勧められ『オッドタクシー』を一気見しました。
面白かったです。
一気見してしまいましたが、本来はじっくりと時間をかけて見直し、意味深なカットやセリフに考えを巡らせて楽しむタイプのアニメかと思いました。リアルタイムでワイワイ見れなかったのが残念です。

そんな非王道的な鑑賞スタイルで『オッドタクシー』を楽しんだ私ですが、気になったのは、「リアルな現代社会を擬人化を通して描く」という世界観についてです。最近このような、「社会を戯画化して描くフィクション作品」をよく見る気がします。今回は、この引っ掛かりから記事を書いてみます。ネタバレを含みます


(懐かしのCM)

前提整理

この記事に到達して頂いた時点で『オッドタクシー』知らんという方は少ないと思いますが、念の為粗筋を転記します。国内外でプロ・アマ問わずに高評を得た作品で、映画化・舞台化などのメディアミックスも進みました。

偏屈で無口なタクシー運転手・小戸川を主人公にしたミステリードラマ。小戸川が運ぶのは、バズりたい大学生や何かを隠す看護師、売出し中のアイドルなど、クセのある客ばかり。しかし無関係に思えた彼らの会話は、失踪した一人の少女へとつながっていく。マンガ家・脚本家の此元和津也による緻密な伏線やシニカルなムードと、監督も務める木下⻨によるキャラクターデザインは一見ミスマッチながら、擬人化した動物たちの奇妙な都市を存在感豊かに構築した。花江夏樹などの声優陣とともにミキ、ダイアンら芸人、ラッパーのMETEORも参加し、プレスコによる生きた掛け合いを披露。PUNPEE、VaVa、OMSBらによる個性的な劇伴音楽も物語を彩った。

文化庁メディア芸術祭より

この作品、見た目は『どうぶつの森』的な可愛らしさがありますが、内容的にはゴリゴリにリアルな現代社会・人間模様を描いています。そしてこうした作品が、最近は目立っている気がします。近い作品だと『ズートピア』や『BEASTARS』。これらも擬人化された動物が、現代的社会を生きる作品です(勿論、細かく見れば設定が違いますが)。
こうした鳥獣戯画的な世界観が、今においてどの様な理由があるのか、考えてみたいと思います。

『オッドタクシー』的作品が何かを考える

私が「擬人化された動物が現代的な社会を生きる」設定に引っかかりを覚えた理由は、二重に倒錯があるよう感じられたからです。
つまり、

  1. わざわざ動物達を物語世界に登場させているのに、結局はリアルな人間社会を描いているという倒錯(最初から人間で描けばいいのでは?)

  2. わざわざアニメという自由に空想が描ける世界なのに、結局はリアルな社会を描いているという倒錯(アニメではなくドラマでいいのでは?というか日常生活で体験していることの反復を、わざわざ余暇の時間でも消費しないのでいいのでは?)

『オッドタクシー』のように「現代社会システムでの人間ドラマを、人間以外の姿で描いている作品」を、擬人化をもじって「擬現代人化」としてみます。

擬現代人化への疑問

最初の「なぜ動物でわざわざ人間社会を?」への疑問は、比較的に簡単に答えが出そうです。考えられる答えの一つは、「人は人間社会に興味があるから」。


私はスポーツ漫画にあまり関心がありませんでしたが、サッカー少年である私の幼馴染は『キャプテン翼』を熱心に楽しんでいました。これは現実の興味関心をそのままに、サッカーの様々な側面を楽しみたいという心性があったと想像できます。
『キャプテン翼』は迫力あるシュート技や、世界に挑戦して努力する主人公の葛藤や勝利の快感など、現実のサッカーの魅力を分かりやすく強調して伝えてくれます。
アニメ・映画・ドラマなどフィクションは、ちょっと不思議な世界を創造して、日常の世界の見方を変えてくれます。よく出来たサッカー漫画は、現実の枠組みを飛び越して、サッカーに潜在している魅力に気付かせてくれます。

擬現代人化作品の倒錯の理由も、同様の流れから考えられそうです。
私たちが慣れ親しんでいる現代社会だからこそ、動物化という捻りを通すことで、それを新鮮に味わい直すことができる。擬人化という装置は、現代社会を捉え直す為にあるという考えです。動物社会を描くために動物を登場させているのではなく、人間社会との新たな出会いのために動物化させている訳です。
皆が現代社会に複雑な関心を抱いているからこそ、「現代社会との新しい出会い」を提供してくれる擬現代人化作品などは、広く関心を集めているのかもしれません。

物語に求めるもの

もう一方の「なぜフィクションでリアルな社会を描くのか?」の疑問ですが、改めて考えると、問題設定の方に難がある気がしてきます。
先ほど見た通り、あらゆるフィクションはリアルな社会を下敷きにしており、むしろフィクションに振り切る作品の方が珍しいからです。現に、最近のアニメ作品のジャンルを見直すと、学校生活・日常系。アイドル・料理・スポーツなど、現代社会そのものを描く作品が大半です。

私はどちらかというと非日常側に振り切った物語が好きです。月9のリアルな社会人生活や恋愛ドラマより、迫力あるアクション作品が好きだし、純文学を読むよりはSFを楽しいなと思います。大まかに言って。
リアル寄りの作品を求める心性は、リアルな社会に関心があるからとして、アンリアル寄りの作品を求める心性は何に関心を求めているのでしょう?

わたくし気になります!

まず考えられる理由として、『オッドタクシー』の主人公:小戸川がそうであったように、「リアルにウンザリしているから」というもの。
彼は、過酷な現実から逃れるために動物の世界を作り出し、そこに閉じていくわけですが、ファンタジーを好む私も、小戸川と同じ心持ちなのかもしれません。「ここではない何処か」を欲しているからこそ、逃避先としてファンタジーを求める。あり得そうです。

もう少し前向きな理由はないでしょうか?たとえば、「多様性を欲しているから」。
リアリティあるドラマが描くリアルさとは何なのでしょう?立身出世のための大きな目標、意地悪な同僚や上司、ままならない恋人との関係。そういうリアリティは、言ってしまえば21世紀の大都市生活でのリアリティに過ぎないとも思えます。それは最も身近なリアリティではあるものの、世界の可能性・姿はもっと広く多様です。
ファンタジーを通しても、私はやっぱりキャラクターの成長や生き様に目を奪われます。あるいは見たことがない文化や技術や生物。それらは「今」という閉じたリアリティを超える、現実の可能性を感じさせてくれて、時には蒙を啓いてさえくれます。オタキング:岡田斗司夫さんが「経営者こそSFを読め」と宣っていましたが、それと同様です。つまり、創造としてのファンタジーという魅力です。
私がフィクションに力を感じるのは、こうした創造性を体験できた時かもしれません。逃避としてのファンタジーも創造としてのファンタジーも、コインの裏表ではある気もしますが、モノゴトのどういう側面に注目するかで、取り出せるものが変わってくるのもまた事実。折角ならより開放的な側面に注目して、より多くを取り出せるようにありたいものです。

ファンタジーは「今のリアリティ」を超える、「あり得るかもしれないリアリティ」をより自由に想起させてくれます。自分はそうした過去の体験を追体験したいからこそ「フィクションはファンタジーであるべきでは?」みたいな(誤った)疑問が出てきたのかもしれません。

おわりに

今回は、『オッドタクシー』での引っ掛かりから私が物語に何を求めているかを取り出すことことを行いました。それは「固定された日常から離れる創造性」でした。
話の流れ上、日常性・非日常性の対立軸を出しましたが、念の為言うと、どちらが優れているかという話では全くないです。舞台がどうあれ、気付かなかった世界の一面に気付かせてくれる作品はいくらでもあります。
逆に言うと、どのような突飛な世界設定だとしても、その物語から現実の世界に対する何らかの気づきを得られなかった場合、それは私にとっては面白
くない作品になってしまっているかもしれません。


最後までご覧いただきありがとうございます!
ぜひ皆さんの『オッドタクシー』の感想なども教えてくださいmm (自分のは最早『オッドタクシー』関係ない気もするけど…)


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