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こうしてわたしは挫折した ―ピアノ調律師に必要なこと(1)―

以前の記事で、ピアノ調律師に「なること」自体はそこまで難しいことではないということを書きました。

ただ、「自分がなりたいようなピアノ調律師になること」は
非常に難しいと思います。
わたしはピアノ調律師にはなれましたが、
わたしがなりたかったピアノ調律師にはなれませんでした。

このシリーズでは、わたしが働いてみてピアノ調律師に必要だと
感じたことを挙げ、なぜわたしが挫折したかを考察していきます。

自分の身体感覚への信頼感

これはわたしが最も重要と考える素質で、
かつ、わたしに欠けていたものです。

ピアノ調律師にとって、己の身体感覚は自分の仕事に
フィードバックをもたらす最大もの。
一般のお客様の中に、調律・整調に対する具体的なご要望や、
もっとこうして欲しい、というフィードバックを下さる方は
ほとんどいらっしゃいません。
(もし遠慮してらっしゃるのでしたら、是非試しに伝えてみて下さい。
 多くのピアノ調律師は喜ぶと思います。)

もし他人からフィードバックを貰えたとしても、質を評価して
最終的に作業の終わりを判断するのは自分です。

狙ったように調律できているか。
タッチは気持ちよく整っているか。
そして、そのピアノが持てる魅力を最大限に引き出せているか。

その評価の全ては、自分の聴覚や触覚、視覚などで行われます。
いわば、自分の身体感覚というのはセンサーそのもので、
そのセンサーがちゃんと機能していると信じられなければ、
自分の仕事に適切なフィードバックを与えることができなくなります。

センサーの開発

研修を始めて間もなく、わたしに搭載されているセンサーは
他の研修生と比較して性能の悪いものだということに気が付きました。
研修の成績が良かったのは座学だけで、肝心の調律は
下から数えた方が早い劣等生だったのです。
現役時代のわたしの最大の目標が、このセンサーの感度向上でした。

性能の良いセンサーがあるとなぜいいのかというと、
例えば腕の良いの調律師は、音を聴いたとき、それを細かく要素分解して
上手くマッピングできるという印象があります。

あたたかい音、冷たい音
明るい音、暗い音
派手な音、静かな音

例え言葉で表現できなくても、自分の耳で音の要素分解を精緻に行うことができると、調律前のピアノがどういう音をしているかという現状の分析、
調律後にどんな音に整えるのが最適かという計画、そして実際調律した後
狙った音に仕上がっているかの評価という一連のプロセスを
自分で行うことができます。

調律を始めた当時は自覚がなかったのですが、わたしは言語などの
明示的な表現以外のものを扱うのが苦手です。
どうやら、五感で受け取った情報をそのまま脳内で処理するのではなく、
言葉や数字など分かりやすい形に変換して処理しているようです。
この場合、知っている形容詞・形容動詞の数だけにしか
音を分類できないことになりますので、ボキャブラリーに依存します。
感覚を感覚のまま処理できるひとが楽器の生演奏だとしたら、
わたしはデジタル変換された音源みたいなもの。
解像度が落ちてしまうわけです。

感覚を感覚のまま処理できる人たちの根底にあるのは、
自分の感覚への信頼感ではないかと推測しています。
わたしがセンスいいな、と思った調律師は、論理そっちのけで
「この音がいい!」と堂々と言ってのける人たちで、
どう良いのか言葉で説明ができなくても頭の中にイメージする音が
確かに存在しているのだと思います。

センサー開発の評価と退職

退職を決めたのは、調律を始めて4年半ほどたった頃、
同期の調律師とFazioliというイタリアのピアノメーカーの
ショールームにお邪魔した時でした。
Fazioliはとことん音にこだわったピアノメーカーとして知られていて、
時間と手間をかけた工程を採用しているため年間100台前後程度しか
生産されていないとされています。
調律を始める前から一度は触ってみたかった憧れのメーカーでした。

ピアノを触ってみて、確かにものがいいことは感じとれました。
しかしながら、他メーカーの上級機種と比較して
どう違うのか、残念ながらわたしにはよく分かりませんでした。
自分の感覚を信頼できなかったわたしは、
センサーの開発に失敗していました。
その瞬間、わたしは退職を決意したのでした。

身体感覚は鍛えられるのか?

この問いに対する明確な答えをわたしは持ち合わせていません。
4年半という歳月が、身体感覚を鍛えるのには
十分ではなかったのかも知れません。
適切な努力ができていなかったのかも知れません。

わたしの仮説は、身体感覚を鍛えることはスポーツに
似ているのではないか、ということです。
(真面目にスポーツに取り組んだことはないですが)
ある程度のレベルまでは、つまり、調律師として食べていくのに
必要な程度には鍛えられます。
でもそれ以上抜きん出るためには、並々ならぬ努力と、
そしておそらく才能も必要でしょう。
わたしにはそのような努力もできず、そして才能もありませんでした。

では、信頼感は鍛えられるのか?

これはYesでありNoでもあると、はっきり思います。
自分の行動や、それに対して他人から得た評価は、
信頼に値することを裏付けるのに貢献します。
練習は嘘をつかないというのがその例で、
これだけやったのだ、という自覚は
自分の感覚を信頼するための客観的な根拠を与えます。

しかし、おそらく最後のひと押しは、

勇気とか
勢いとか
盲目的な確信とか

そういうものでしかできないと思います。
このひと押しでしか到達できない高みのことを、
世間では「センス」と呼んでいるのではないでしょうか。

教訓めいたもの

せっかくなので、この体験と考察から得られる教訓がないか
考えてみましょう。

正解のない世界で、盲目的であることは時によい働きをする。

これは実は今自分がやっている学術研究の世界でも言える気がしています。
学術研究と盲目的であることは一見水と油のように見えます。
しかし、学術研究で到達できるのは「正解」ではなく、あくまで「現段階では確からしい」というところまでです。
正解がないという点で学術研究もまた、最後には盲目的にならざるを得ない瞬間があるように思うからです。

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