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プログラムノートの楽しみ方+α

演奏会に行くと必ず付いてくるのは、プログラムである。その日の演奏曲目、演奏者のプロフィール、演奏曲目についての説明などが記載されている。

プログラムは、演奏会ごとに個性が出るのでとても面白い。私の地元だと、名古屋フィルハーモニー交響楽団のプログラムは、その月の演奏曲目のみならず、次月の予習のためのコラムや、楽器配置や乗っているプレイヤーの一覧が書かれた別紙が挿入されていたりする。楽団のプレイヤーによる近日の演奏会情報も記載されているので有難い。

自分には関係ないけれども、定期会員の名簿をなんとなく眺めるのも、開演までの時間つぶしになる。

アマチュアのオーケストラを聴きに行くと、プログラムにかなり力を入れているので読み応えがある。対して、そのホールの自主開催公演なんかは紙切れ一枚で経費削減を狙っているきらいがあり、なんだか物寂しい気がする。

某テレビの事業が展開するクラシック音楽祭(東海テレビでいうスーパークラシックコンサート)のように、一定期間のうちに、招聘された有名演奏家のツアーの一部を組み込んで複数回実施する演奏会は、大抵プログラムが別途販売されていることが多い。500円から買えるものもあれば2000円くらいするものもある。「高いな?」と思われるかもしれないが、ぜひ購入することを勧めたい。それだけ内容は豊富だし、価値の高いものが多い。

さて、プログラムを読むと勉強にもなるし予習にもなるし、開演までの時間潰しにもなるし、コンテンツとしてはメリットが大きい。しかし、考慮すべきデメリットも存在する。それは、勉強や予習という利便性に対して「知らない曲を知りすぎてしまう」という点。もう一つは、似ているけれども、一元的な価値観を植え付けられてしまう可能性がある、という点である。

後者について書こう。ショスタコーヴィチというロシアの作曲家が作った「交響曲第5番」という作品がある。スターリンによる独裁体制時代に、ロシア軍の鼓舞やプロパガンダのための作曲が社会的に要請されていたとされ、最終楽章のファンファーレには勝利が描かれているーーと、ここまでは曲の建前であるが、実はショスタコーヴィチは、曲の中にさまざまなメッセージを込めた、という説がある。

ソロモン・ヴォロコフの『ショスタコーヴィチの証言』という本に書かれているように、実はショスタコーヴィチは反体制派で、曲の各所に体制批判とも取れるメッセージを挿入した、だからこの曲は戦争に対して批判的な精神が描かれている、という説がひとつ。

しかし、ヴォロコフのこの著書には幾つか矛盾点があり、そもそもそんな証言など為されていないのではないか?という研究も後に浮上してくる。そこで登場した新たな説が、ショスタコーヴィチは好きな女性を想い、その愛のメッセージを挿入した、という説である。

個人的にこのショスタコーヴィチの交響曲についてはよく調べてみたいと思っているので、細かい話はまたどこかで書くとして、すなわち、この作品には諸説あり、解釈がさまざまに存在していて、どれが正しい、とも言えないという状況があるのだ。

プログラムノートを書く、あるいは読む上で気を付けておきたいのは、諸説ある作品について、どちらかの説のみを記述して他方の説については言及していない、またはどちらかの説を強く推し進める解説は、あまり当てにならない、ということである。

某学者は、しばしば有名オーケストラのプログラムノートを担当している。ところが、私の妻が大学院である研究をしていてその人の論文を読んだ時、その論文がかなり恣意的かつ誇張的、そして史実に基づくものではないことに気がついて辟易していたことを、その人のプログラムノートを読むごとに思い出す。実際、大学院の教授も、その人の論文は当てにならないからあまりお勧めしない、と言っていたということだ。

この人のプログラムノートを読むと「なんかコレ怪しいな?」と思うことがしばしばあるが、その某学者に限らず、「怪しいな?」と思った解説は大抵本当に怪しい。プログラムに限らず論文等でもそうだが、客観的事実がベースにないものは、やっぱり怪しい。ちょっと押し付けがましい解説があった時は、他の方の文章とも読み比べてみてほしい。

本質的なことは、今から演奏をするオーケストラや指揮者がその音楽をどのように表現して何を伝え、われわれがそこから何を感じ取るかである。プログラムノートは、その足がかりとして重要な参考資料になることは間違いないが、要は没頭しすぎないことをお勧めしたい。

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