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アシュケナージという音楽家について

この文章は1年前に書いたものになるので、今と少し考え方が異なる部分があるけれども、まあほぼ同意なので、少し体裁を改めて掲載してみよう。

Vladimir Ashkenazy(1937-)という音楽家について、彼は本当に「スタンダード」なのだろうか、という問題提起をしてみた。最後まで読んでいただくと分かるが、どうしてここまでアシュケナージに対して熱意を込めるかというと、中学生の頃にクラシック音楽を聴き始めて初めて触れた音楽家で、特に思い入れがあるからである。

アシュケナージ、と聞くと、世界的に最も優れたピアニストの一人であり、指揮者でもあるという認識と共に、その演奏スタイルは模倣的・標準的であり、突出したものがない、と言われることが多い。

個人的には、レビュー(特に音源に関わるもの)は全く参考にしないけれど、幾つかの音源(CD)のレビューや感想ブログを見てみると、「凡庸」「中庸」という感想が目立つ。初めてアシュケナージの演奏を聴いた人の中にも、彼の演奏スタイルの特徴であるノン・レガート的なタッチや、鋭利な打鍵が好みでないと感じる人もいるらしい。

何故「スタンダード」と言われるのか。これはピアニストとしてのアシュケナージの評価だけど、私の周りの、クラシックに精通している人や、ピアニスト、ピアノ指導者が、口を揃えて言う「標準的演奏」なる所以は、真似をしたくなるような「個性のなさ」ではないかと思う。さっき、彼の演奏スタイルの特徴を述べたばかりであるが、そのような個性を差し置いて、彼の演奏には「個性がない」と言われる所以があるようだ。

たとえば、ホロヴィッツやリヒテルのような演奏でコンクールを受けてもほとんど確実に落ちるだろうが、アシュケナージのような演奏を模して演奏したら通るだろう。アシュケナージの演奏は模範的だし完璧である。「完璧」は語弊があるかもしれない。めちゃめちゃ悪い!という側面もないし、めちゃめちゃ良い!という側面もない。だからある意味、完璧なのかもしれない。

一方、アシュケナージはある特定の作曲家を絡めて語ることができるだけのものがない。つまり、たとえば「内田光子と言えばモーツァルト」や「ギレリスのベートーヴェン」、「ソフロニツキーのスクリャービン」のような作曲家がいないとされている。つまり、なんでも弾く。なんでも振る。全ての作曲家の、全ての曲を、全て完璧に演奏する。その結果、音楽性がどの曲を聴いても「似てくる」。だから、「個性がない」と言われてしまう。え?と思われたかもしれない。本当にアシュケナージは「スタンダード」なのだろうか。

音楽家の「個性」を言語化することほど難儀なことはない。それぞれの音楽家の演奏には必ず個性がある。アシュケナージという音楽家の演奏にも個性があって、それが「模範性・完璧性」なのだろうか。彼は膨大な録音を残しているが、その模範性のあまり、注目されないまま廃盤になってしまったものも多くあるという事実がある。

また、「模範的である」ということと「上手いと思うこと」は別次元であるように思う。たとえば、数年前にケヴィン・ケナーのパデレフスキのソナタを生で聴いて「途轍も無く上手い」と思ったし、最近チョ・ソンジンのリサイタルを聴きに行って「信じられないくらい上手い」と感じた。あの次元に到達することは常人には不可能なので、ある意味、模範とはならない。

「上手い」と思う理由は、自分のこれまでの経験や感覚に基づくものだから確固たる根拠はない。けれども「上手い」演奏は印象に残るし、また聴きたくなる。「模範的である」ことは、同様に経験や感覚に基づくものなので根拠がない一方で、必ずしも圧倒的なカリスマ性を伴うものではない。模範的であることが「上手い」と思わせるものでもないと思う。

では、アシュケナージは、模範的ではあるが「上手い」と思わせる演奏ではないのか?答えは「否」である。2018年の秋、アイスランド交響楽団を振るアシュケナージのシベリウスの第2シンフォニーを聴いたが、これまでの「模範的」な演奏のイメージを覆すものだったことを鮮明に記憶している。はっきりと「上手い」と言える演奏だった。また、辻井伸行とのショパンのコンチェルト第2番のオケ伴奏も、ピアノを立てる繊細なサポートを感じる演奏だった。
残念ながら、生のピアノ演奏を聴く前に彼は引退してしまったが、この時から、アシュケナージ=スタンダードという概念は消失している。

私は、彼には模範性や完璧性とは違う別の個性があると確信している。約400枚を聴いて、それぞれの音源にそれぞれの「色」があることを知っている。詳しい音源紹介は、Twitterの方をご覧いただければ、たまに流れてくることと思う。

確かに、他の音楽家と比べてこの曲は、そっちの方が良いとか好きとかはあるに違いない。私自身、アシュケナージの全ての演奏を肯定しているわけではないけど、自分の選択肢の中にアシュケナージを加えることに異論を唱えることは、私の中では既に有り得ないほど、アシュケナージもまた「個性的」な音楽家だと確信している。

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