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30年前の私のノート

東京パラリンピックが行われています。
以前からお仕事で、障がい者スポーツのイベントや障がい者アスリートのトークショーなどの司会を担当させていただいてきました。
そしてその司会の台本を読むときに、いつも思っていたことがあります。それは「障がいのあるなしにかかわらず」という言葉の中にある、障がいのある人と無い人との境界線です。そういうことを言わずにフラットでいられたらと、いつも思うのです。


先日、30年前のノートを読み返していました。
私が高校に入学したばかりの頃のものです。

当時、放送部に入っていて、夏の大会(野球で言えば甲子園のような大会)に向けて、アナウンス原稿を考えていて、ノートにはいくつか書き残されていました。
私らしい暑苦しい文章で自分ながらに恥ずかしいのですが、とても純粋に盲学校での経験を書いているものがあり、それを読みながら色々なことを思い返すことができました。


*30年前の15歳の子供が書いた文章です。当時のままの表現です。不適切な表現と感じる点がありましたら、ご容赦ください。

盲学校について皆さんはどのくらいのことを知っていますか?
あまりよく知らない人の方が多いと思います。私も全てのことを知っているわけではありませんが、2・3回の交流をして、素晴らしいことを知ることがでことができました。
その中で一番印象に残っているものは、盲学校の体育祭です。円周リレー、騎馬戦、応援合戦など、私たち以上の白熱した体育祭でした。私は、自分の力を精一杯出すことの大切さを知らされたと思います。
高校受験の夢を閉ざされた○○君。私には、あの時の涙が心に焼きついて離れません。○○君は、最後まで闘いました。県教委と世間と、そして自分自身と。
そんな○○君の学校の体育祭を一度、見に行ってみてください。
今までの自分が変わるかもしれませんよ。


中学を卒業してすぐのまだまだ子供だった私のアナウンス原稿(と言えるものではなく作文ですね)です。

私が通っていた中学校は、道徳教育に熱心だったと今の歳になって思います。戦争や部落差別や障がいに関してなどを、クラスでよく考えていました。
当時、私は生徒会に入っていたこともあり、盲学校との交流で体育祭を見学させてもらい心から感動しました。今でも、その時の風景が浮かびます。視覚に障がいのある同じ年頃の生徒が体育祭を行っているからということもあったでしょうが、実は、それよりも、盲学校の生徒がやっていた競技を、私にはできないと思った感覚の方が強かったように思います。
それは、視覚の障がいの有無で、そのように考えたわけでは無いと思うんです。その時、私は引率した先生に「私たちの学校と盲学校の生徒と一緒に体育祭をするといいと思います。」と、そんなことを言ったように朧げですが記憶しています。
きっとその時の私は、私たちと盲学校の生徒を分ける必要は無いと思ったのだと思います。

原稿の後半に、高校受験を閉ざされた盲学校の生徒さんのことを書いていますが、当時、その生徒さんは、公立の普通高校を受験したいと希望していました。学力は十分にあったのに、高校側は受験はできないとしていました。理由は、視覚障がい者を受け入れられる設備や準備が整っていないということだったと思います。
私たちの中学校では、受験ができるようにして欲しいという署名活動が始まりました。私も、近所のお家を一軒一軒まわり署名をお願いしました。断られたことも多々ありました。
猪突猛進。正しいことをしていると思っていた中学3年生の私は「なんで、署名してくれないの?」心の中で思っていましたが、理解を示してくださる方も大勢いました。
今もまだ、障がいへの理解は進んでいない面も多々あると感じますが、当時は今以上に難しかったのだと、改めて思います。


冒頭に、障がい者スポーツなどのイベントで司会をすることを書きましたが、障がい者スポーツという括り(表現)も、いつか無くなるといいなと思っています。障がい者スポーツのイベントとなると、参加される方の多くは障がい者の方です。イベントの目的としては、誰でも垣根なく参加するイベントを目指しているのですけど。
パラリンピックの放送も、オリンピックに比べるととても少ないです。こういうところでも境界線を感じます。

そして私自身も、歳を重ねて大人になり境界線を作っていなかっただろうか?
30年前のノートを読み返して、改めて見つめ直しています。



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