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「少し寒い」×「あと1時間」× #54917f

 狭苦しいキッチンに甘いとろけるような香りが立ち込める。
 甘いものが苦手な私の部屋では珍しい。20を超えて早数年。アラサーに片足を突っ込んでいる私が手作りチョコレートを作っているってなんかおかしい。困らないくらいには稼いでいるんだから、ブランド物のチョコレートでも叩きつければいいのである。

 バレンタインに染まった街は、そこらじゅうにピンクとハートが溢れていて、見ているだけで胸やけを起こしそう。恋人がいる私ですらそうなんだから、恋人がいない人は……そういう人はあまり街をじっくり見るということをしないのだろうか。事実、そういう時期の私はいつも下ばかり向いて歩いていた気がする。

 最後にチョコレートを手作りしたのは、高校2年生のとき。来年の今頃は受験やらでそれどころじゃないと、やたら気合の入ったチョコレートを作ったことを覚えている。憧れの先輩に渡してみたものの、お返しは返ってこなかった。
 大学に入ってからは、そんな女子らしいことをした覚えがない。そもそも、キッチンが狭すぎてそんなことをしようという気すら起きない。
 カイさんには、手作りのお菓子を渡したことがない。先輩と後輩、そして飲み友達……そんなものの延長で付き合っている私たちの間には甘い雰囲気が持ち込まれることが稀である。地酒なんかを探して、一緒につまみを食べながらちびちびと飲む。
 それが私たちのバレンタインだった。
「お、チョコレート」
 それは、先週のことだった。久しぶりに家以外でも会おうという話になって、二人でブラついていたときのこと。やたらと気合の入った街並みにショーウィンドウを見たカイさんは、そんな季節だなぁーと小さく笑った。
「こういうのって美味しいのかな? チョコレートってあんまり食べないから。」
「んー、やっぱり値段分くらいの味はするんじゃん?」
「カイさんは板チョコでも楽しめそう。」
「いや、楽しめるけど。でも、やっぱり手間がかかってるものって美味しいよ。」
「……へぇ」
 綺麗に陳列されたチョコを眺める解散の横顔を見つめる。何かを思い出したように、目じりを垂れているのが気に食わない。
 彼がいっている手間がかかっているチョコは、きっと、絶対に手作りチョコというやつで。モテモテの彼のことだから、学生時代の甘酸っぱい何かを思い出しているのだろう。
――別に、私にもそんな思い出の一つや二つ、あるからいいけどさ。
 なんとなく面白くなくて、その日は彼と少しだけ距離をあけて並んで歩いた。
 カイさんと別れて、電車に揺られて思う。チョコレートって溶かして固めればいいんでしょ?簡単じゃん、やってみるか。怒涛に流れてくる思考に従うままに、数枚の板チョコを買ってその日は家に帰った。

 思えば、学生時代の気合の入ったチョコレートは母の助けを十分に受けて作ったのである。料理をまともにするのも難しい私に、お菓子作りがまともにできるわけがなかったのだ。
 カイさんからの飲みの誘いを断り、とにかく必死に手作りチョコレートを作ってみる。カップに入れるだけのチョコレートでも、簡単ではない。適当に作れば、こんなのすぐに分かってしまう。
 胸やけと戦いながら作ったチョコレートを食べて、また作りなおしてみる。溶かして生クリームとまぜて、汚れないようにカップに入れてみる。また、別なときは四角の型に入れて切って……どうにもうまくいかない理由は、私のこらえ性のなさも原因らしい。固まっているのか気になると、触りたくなってきてしまうのだ。というか、気になり過ぎて触るしかない!と思ってしまう。……私、向いてないな? でも、カイさんのあんな顔を見てしまったら仕方ない。私が、あんな顔にしてみたいと思っちゃったんだから。

 チョコレートを作るときは、あまり暖房をつけないほうがいいらしい。いつもは無精で履かないもこもこ靴下に、スリッパ、部屋着のパーカーを羽織る。手が少しずつ冷たくなってきている気がするけれど、そこは我慢だ。だって、もう少しで完成するし……。というか、してもらわないと困るし。
 時計を横目で見ると、待ち合わせまであと1時間もない。
「えっ、うそ……」
 メイクはできるかな?洋服だけは着替えているけれど、ラッピングまで手が回りそうにない。なんで当日までにチョコレート作れないかな?……って昨日の残業のせいだ。
 固めるだけのチョコレートを冷蔵庫に入れて、その間にさっと化粧を済ませる。アイメイクはできないけれど、それはこの際言いっこなしだ。
『もう少しでつくよー』
 箱にチョコレートを入れたころ、カイさんからメッセージが届く。私の最寄に近いところを待ち合わせにしてもらったからといって、彼を待たせることになる。
『ごめん、今から家出る』
 少しした後に、親指を立てた熊のスタンプが送られてきて、申し訳なさにひたすら落ち込む。余計なことなんかしないで、待たせない彼女のほうがどう考えてもいい。
 一週間前から準備していた靴に足を入れて、ドアを開ける。
「よ」
「……はぁ!? 」
「おしゃましまーす」
「ちょ……っとカイさん!」
「……あ」
 キッチンには、出しっぱなしのチョコレートがこびりついた器具が溢れかえっている。部屋に染みついた甘い香り。
「リク……お前さ」
「……ん!」
 カイさんの顔面に、さっきチョコレートを入れたばかりの箱を押し付ける。いってーな!と怒りながらも、顔がへらへらと締まりがない。
「……バレンタイン、おめでとーございます」
「ありがとう」
 ぱっと明るくなる顔は、私が見たかったままの表情で、彼は本当に嬉しそうに笑ってくれた。これこれ、これが見たかったの。
「来年は頑張れないかも。」
 一歩、カイさんのもとに近づいて、そっと彼の冷えた手に自分のそれを重ねてみる。
「いいよ。俺が作ってあげてもいいし。」
 ははっと笑うカイさんの声が軽く響いて気持ちがいい。重ねた手を、彼は何も言わずに握ってくれた。

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