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「1本遅い」×「起きるのは大変」× #b22222

 彼は早起きだった。私よりも1本速い電車に乗るはずの彼は、私が家を出る1時間前に駅へと向かう。駅前の喫茶店で朝刊を読むのが好きだった。

 彼は、私の見送りは必要としなかったし、私に朝食を作ることを強要することもなかった。穏やかで、笑うことは少なかったけれど、激昂するということもなかった。

 だからだろうか、終わりもあっさりとしていた。

『もう終わりにしよう』

 落ち着いた彼の声を、私は拒否することなんてできない。特に何を言うわけでもなく、私は頷いた。

 彼の行動力は目を見張るものがある。3日後、彼は自分の荷物をすべてまとめて姿を消した。連絡をしようにも、すでに番号が変わっていた。

「徹底してるなぁ」

 一人いなくなっただけの、1LDKの部屋は思ったよりも広かった。ベタベタとするのが嫌いな人だった。自分だけの時間が欲しい、自分だけの場所が欲しいと部屋を探すときに言っていた。それが大きな仇となったらしい。

 休みの日、誰もいない部屋で起きるのは大変だということを知った。彼はコーヒーを淹れるのが好きで、休日の朝は必ずと言っていいほど部屋中が香りに満ちていた。

 ぼんやりとした頭で、コーヒーを淹れる彼の背中に近づくのが好き。どれだけ足音を立てなくても、彼は絶対に気づいてくれる。振り返って、小さく笑って、あの声で「おはよう」と言う。

 広い部屋で、私は彼の幻想を見る。

 ベッドで眠る彼の背中、本を眺めながら細める目、大きなマグを持つ骨ばった手。どれもこれも好きで、私は彼のいうことをすべて受け入れていた。

 もしかしたら、彼はそんな私のことが息苦しく感じていたのかもしれない。受け入れることと、ただ条件を飲んでいくことは似ているようで全く違う。

 私の片思いだった。本屋で見かけた彼のことが気になって、声をかけて、出かけるようになって。彼から届くメールはシンプルだけれど、優しさが滲んでいて何度読んでも嬉しくなった。

 彼の忘れていった真っ赤な歯ブラシを見る。黄緑の私の歯ブラシの横に、もたれるようにして立っている。

 彼が出て行って、もう1カ月。持ち主のいない消耗品ほど、無意味なものはない。捨てなくちゃ。

 洗面室に、カランと無機質な音が響く。真っ白なゴミ箱の底に、真っ赤なプラスチックが煌々と輝いている。

 この部屋の契約は、あと3カ月で切れる。その間に、私は次の住処を探さなくちゃいけない。

 燻るこの気持ちは、きっとこの部屋に置いていきたい。

 次は、もう少し狭い部屋がいい。そうすれば、きっと彼の影を追うことなんてできなくなるはずだから。

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失恋のことばっかり書いてる気がしますね!寒くなったからかな!

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