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僕の好きなアジア映画90: 羊飼いと風船

『羊飼いと風船』
2019年/中国/原題:気球/102分
監督:ペマ・ツェテン
出演:ソナム・ワンモ、ジンパ、ヤンシクツォ

東京映画祭について報じるニュースでペマ・ツェテンの「遺作」という文字を見て、僕はやっとこの監督の急逝を知った。小説家でもあるチベットの名匠ペマ・ツェテンの映画を、僕は実はこの『羊飼いと風船』以外は観ていないので、「ファンだ」などというのは無論烏滸がましい。

今僕は安易に「チベットの名匠」と書いたのだが、実はチベットという国は現存しない。中国人民解放軍が1950年から51年にかけてチベットを侵攻し全土を制圧して以来、チベットは独立国家ではなく、中国の「自治区」であり、中国政府の圧政の元にある。したがってこの地においても当然中国の法律が適応されているのだ。つまりこの地にも「一人っ子政策」が適応されているというわけで、そこがこの映画を観る前の基礎知識として最低限必要なのだと思う。

主人公はチベットの大草原で暮らす、すでに三人の子供がいる羊飼いの夫婦である。チベット仏教への帰依を生活の基盤としていた夫妻の父が死去し、その後に妻の妊娠が発覚する。冒頭で子供達が白い風船を膨らませて遊んでいるのだが、その風船は実は支給された避妊具なのであり、つまり彼ら夫婦は避妊ができなかったわけである。子供が増えることでの経済的負担や当局からの罰則を考えて、妻は堕胎を考え病院で相談をする。一方伝統的宗教観を維持し輪廻転生を頑なに信じる夫は、授かった子供は亡くなった父の生まれ変わりだと考え、子供を産むことを望む。

生殖の象徴としての猛々しい雄羊、壮大な平原、これらは神秘的な従来の世界観そのもので、経済的・政治的理由による堕胎は無慈悲ではあるが、女性自らの判断という点も含めて現実に対応した現代社会そのもの。この映画はその二つの世界のせめぎあいが描かれている。

父が町で買ってきた赤い風船は空に飛んでいってしまう。それは大きなお腹の妊婦の象徴であり、お腹の中の子供がどうなったのか明らかにはされないが、恐らくこの世を見ずして中絶されてしまった子供の象徴でもあるのだろう。彼らは自然の懐に抱かれる伝統的で神話的な世界と、人間が支配する現実社会との狭間で生きている。それはまたチベットと中華人民共和国の対比そのものでもある。それこそが現在のチベットの姿なのだろう。

第20回東京フィルメックス最優秀作品賞、第55回シカゴ国際映画祭最優秀脚本賞、第2回海南島映画祭最優秀映画賞


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