掴んだ本当のしあわせとは
前編は ⇒こちらからご覧いただけます。↓
https://note.com/misesunomikata/n/nc7c22dcb39f7
7月8日の手術の1週間前までに、進行中の仕事に一区切りつけるべく、仕事に集中した。ちょうど、お客様のリフォームの相談業務も入っていたし、新聞に掲載中のコラムの締め切りも、術後のダメージがどのくらいか想像できないから、そのあとの掲載分まで、前納した。仕事があることは救いにもなった。私はキッチンアドバイザーなので、キッチンのことをやっているときが一番楽しい。とりわけ、お客様の相談業務やオンライン講座で、お客様の顔がどんどん変わって喜んで下さるときが、一番うれしい。手術の決断に迷っていても、こうしてキッチンの仕事をしている時は、忘れられたし、 自分がワクワクする気持ちになっていることが、病気を忘れることができた。お客様には感謝でいっぱいだった。この時は事情は言えなかったけども本当に救われた。でも、相変わらず食べられない。どんどん痩せていく。
自分の細胞に「ごめんね」
知人が「食べたい物を食べるのよ!口から入れて食事をとることが、術後の回復力に違いが出るのよ。入院して点滴で体力がついたなんて、聞いたことがないでしょ」といわれて、妙に納得できた。幸い近所には、人気のカレー店やおしゃれな店がたくさんあるので、思いきってテイクアウトして、食べた。数年前に開店した、内装がおしゃれなとんかつのお店にも行って「病気に勝つ!のでかつ丼ください」とマスターにオーダーした。食べたいものを食べる、こんなことさえ、今まで自分に許可してこなかったんだ、自分がしたいこと、わがままとは違う、自分の気持ちを自分で聞いてあげることを、ずっと我慢したり、封印して相手に合わせて生きてきたんだ、と、気が付いた。とんかつ屋さんのマスターに「病気に勝つので、かつ丼ください」なんて今までの自分は言えなかった。自分の意見を言って非難されたり、否定されたり、責められたりして5年以上、会社ぐるみのパワハラも受けたことがある。元来、人と喧嘩したり争うことも嫌だ、いつの間にか、人に合わせて自分を抑えてしまうことに慣れてしまった。自分が自分に許可できなくなっていた。食べたい物さえ、自己否定してしまう、だから癌が教えてくれたのかな、もう無理だよって。私の細胞、痛かったね、つらかったね、胸のしこりに手をあてて、初めて涙がでた。「ごめんね・・・」
そして当日
手術前日にPCR検査をうけて、入院。コロナのため付き添いもなし。一人で荷物の紙袋を両脇に抱えて、徒歩10分の総合病院までゆっくりゆっくり歩いた。いつもより歩調が遅いのは、気持ちが重いからかもしれなかった。 病棟に案内され病棟内の説明をうけて、「なにか心配事はありませんか、」どの看護師さんもスタッフさんも気遣ってくれる。「胸をとったら、バランスが崩れて変な歩き方になりませんか」などと真顔で聞くけど、「そんな人はいません。みなさん退院の時は、元気にされていますよ」と看護師さんにいわれるも「ほんとうか?」と心の中で疑心暗鬼になっていた。そして両胸最後の日、最も痛い検査が待っていた。胸に注射をうつ検査。手術中のリンパ転移を確認するためのものらしい。看護師さんが足を抑えて「痛いですよ。声は出していいですからね。」そういうくらい、本当に痛かった。両胸がある最後の日、シャワーをして、鏡をみながら写メを撮った。あっという間の1か月半、ここまできたんだ、と思うと同時に、支えてくれたみんなに感謝がいっぱいになって、疲れていたのか前日は今までの睡眠不足を補うようにぐっすり眠れた。
感謝できないことに感謝できた日
この1か月半、このタイミングで回りの支えがどんなに大事かを教わった。食べれないときに1週間ごとに玄米かゆを届けてくれた友人、なにかできることはないかと電話をくれた友人、知人、悲しくつらいであろう子供たちも、できることを考えて気持ちをいろんな形で届けてくれた。 そして、40年ぶりにzoomで再会した学生時代の仲間たちも、応援して支えてくれた。40年も連絡などとっていなかったのに、みんなで受け止めてくれた。この仲間たちは、学生時代一緒に4年間、コーラスをやっていたメンバーだ。音楽を通した文化交流で、モスクワ大学でカチューシャを歌った仲間。あれから40年の節目に、全国各地にいるメンバーがオンラインで再会したタイミングで、私の病気が発覚した。ラインで連絡をとっていたあるメンバーには、「癌かもしれない」と打ち明けていたが、メンバーみんなにいう勇気はなかった。でも、このメンバーが言ったのは、「みんなに言ってほしい、絶対一人にさせないから。」
ひとりにさせないから
この言葉がどれだけ、勇気をくれたかわからない。今までシングルマザーで20年、いつも一人で崖ぷちにつま先で立ってるみたいだった。子供を守ろうと必死だった。そこに追い打ちをかけるように襲った乳がんという現実。私は必ず勝つ、負けない!と心で叫んで強がっていても、不安や恐怖でグルグルする。胸をとるのはやっぱり「怖い」。できるだけ最小限の人にしか、打ち明けてないし、みんなにいうのは迷った。でもこの力強いひとことが、このあとずっと自分の支えになった。そして、学生時代、モスクワ大学で歌ったメンバー17名は全員、「ひとりにさせない」という気持ちで、私の癌を受け止めてくれた。あるときは、自身の病気の体験を話してくれたし、ある時は道端に咲いていた花が、キレイだったと画像をくれた。あるときは音楽を何曲もアルバムにしてくれたり、ウェブ色紙なるものを全員でしたためて、送ってくれた。中には「はよー治して、みんなで還暦旅行にいくぞ」と、ほんとに心がほっとする言葉がたくさん書かれていた。もう毎日毎日、この暖かい気持ちに「ありがとう、ありがとう」と泣けてばかりいた。手術の不安も「みんながついてる、大丈夫」といってくれた。「私たちも一緒に癌と闘うから!絶対一人にさせないよ。」そんな言葉、言えるみんながすごいんだ!私はそんな心の人になりたい、そのための病気だったかもしれない、手術の前日までに大事なことを教えてもらった。一人では到底、弱くて決意してもまた不安に押しつぶされる毎日だった。だけど周りの支えが強ければこんなにも自分の気持ちのブレが少なく、不安が払しょくされるんだなと支えることの力を身にしみて感じた。人の温かさもこんなに感じたことはない。それは今まで40年間それぞれの苦労があって、傷つき悩みながら乗り越えてきたメンバーだからこそ、私の病気も受け止めることができたんだと思った。同情じゃない同苦するって、自分が乗り越えてこなければできないことだと思う。だから今度は自分が、同苦できる人になれるんだ、と思った。そうでなければ、うわべだけの恰好つけのキッチンアドバイザーのままだったから。みんなの心が、私の傲慢さを切ってくれたんだ、と思った。
いとおしい名誉の傷
手術は4人中、トップバッターだった。これもなにか守られた気がした。はじめでよかった。待ってるのも落ち着かないし後の時間になるほど、絶食が日またぎして、つらくなるからだ。当日の朝、娘が声が聞きたいから電話してほしい、というので、6時半に電話した。笑いながら会話して、「大丈夫よ」と言って電話を切った。9時に手術室に入ると、「あちらのベットに横になってください」といわれて、ほんとにもう胸がなくなるんだと覚悟した。横になると手際よく 若いドクターたちが心電図やら装着作業を始める。話しかけられてもまったく、耳にはいらない。そのうち「麻酔入りまーす」と聞いたと同時に真っ暗。記憶がない。
「終わりましたよー」と叫ぶ声で目が覚めて、遠くで「リンパに転移はありませんでした」と先生の声が聞こえた。だけど目が明かない。ボーとしたまま運ばれていく感覚しかない。きっと終わったら、泣くだろうなと思っていた。病室に戻り、ふと目の前の壁掛け時計を見たら11時だった。2時間か、そう思ってまた寝てしまった。4時間は絶対安静で水も飲めないのが少しきつかったけど、4時間後、歩行ができ一人でトイレに行けるようになった。傷も痛くない。腕もしびれるけどあがる。それは、点滴で痛み止めを注入しているからだろうと看護師さんに聞いた。「これ痛み止めですよね」看護師さんは「ただの栄養剤ですよ」という。「痛かったら遠慮なく言ってください、点滴も座薬もフル装備してますよ、」と何度も言われたが、何日たっても痛くない。日に日に腕もあがる、まったく普通、あれだけ不安だったことが何一つなんにも起こらない。痛くない。傷もキレイだ、キレイだと毎日検診のたび先生も看護師さんもほめる。シャワーの許可が下りた時、勇気がいったけど、「石鹸の泡でやさしくなでて、シャワーで流すと傷の治りもキレイで早いんですよ、」と看護師さんから聞いて、勇気をだしてシャワー室へ。でも怖かった、「シャワー室で気がおかしくなったらどうしよう」 そんな心配も実はもっていた。だけど、これはいろんなことを教えてくれたんだ、もう2度と癌にならない、そう決めて挑んだ手術の傷なんだ、だから名誉の傷だから怖くない、そう思って鏡を見た。 「えー!キレイ!」これが第一声だった。テーピングはしてあるものの、 ぬれると透けて見えた傷は、説明されていたより小さく、ほんとにキレイだった。「よくがんばったね、ありがとうね、」傷にむかって、そういって看護師さんに言われたとおり、石鹸の泡でなでて、「ますますキレイになるよ、」と思いながらシャワーをした。
その日から世界が変わった
あんなに術後が不安だったのに、痛くない、毎日腕がどんどん上がっていく、傷もキレイ、順調に回復して院内のWi-Fiスポットまでノートパソコンを持ってブログをアップした。食事も完食して回復力を養った。当初は2週間ほどの入院予定は1週間で退院になった。「家に帰っても一人なので、生活が不安だからもう少し入院させてほしい」といってみたが、「ここにいても暇でしょ、もう普通に生活できますよ、」といわれてしまった。 退院もコロナのため一人、支払いを済ませ、看護師さんたちに御礼をいって、2つの荷物を両肩にかけて運んだ。切った方の肩にも、荷物をかけて運ぶことができたのは、びっくり。「やるじゃん、」と自分でうれしくなった。さすがに帰りはタクシーに乗ったが、運転手さんが「こんな近くでも利用してくれたお礼をさせてください、」と言って、荷物をマンションの玄関まで運んでくれて、うれしい再出発の日になった。それからは、もう体の不定愁訴はなくなり、食べられるし、なにも不自由なく動ける。ダメージは全くない。むしろ手術前より元気元気。髪の毛の質まで変わってしまった。 入院1週間前に行きつけの美容師さんが、「生まれ変わりましょう」といってショートヘアにしてくれた。これは万が一抗がん剤になっても、脱毛のショックを和らげるために、美容師さんが提案してくれた髪型だった。それがイメチェンになって思いのほか似合って好評だった。退院して1か月後に行った時に「変わりましたね、髪」美容師さんから、言われてちょっとうれしかった。
涙がおちた日
術後は順調そのもので、痛みがないということはこんなに快適なんだと、感謝して、1か月が過ぎて、とった癌の検査結果が判明する日がきた。これで抗がん剤治療になるのか、どんな薬が使われるのかが決まる。 私は全摘すると決めてから、抗がん剤はしない!と自分で決めていた。 それは、するもしないも「最終的にとった癌をみて決まる」と先生が言っていたから。するかしないか、そのガイドラインはなに?自分でも調べて、 とにかく1%の可能性もかけてみようと、「細胞よ、変われ!」と願っていたから、どうせ切るならそのくらい大きな目標を超えて見せる!とも思っていたから。このXdeyは支えてくれているみんなの決戦の日でもあった。 生検の結果、まだグレーの部分もあってさらに検査します、とまた日延べされて、お盆突入の前に病院から連絡があった。これもドキドキもので、病院に行く。これまで、何度このドキドキを感じて、この待合に座っただろう、と初診のときから、今までの3か月の待合での自分の姿が浮かんできた。 癌かどうか不安だった日、癌がわかった日、手術の説明を受けた日、これでどんな結果でも、受け入れて進むしかないのだ、だけど1%でも、このまま終わることが出来るなら、そうしたい。自分の中にあった傲慢さ、見えるものだけで判断していた傲慢さも、自分の身体をほんとうに受け入れることが出来た時、人を受け入れることができるようになった、自分をいたわることが、できなかったことを認めることができた、人の温かい気持ちをいっぱい受けることができた、今度は自分がそういう人になりたい、と思えたとき今回の病気は、その通過点だったと思えた。
よばれて診察室に入ると、検査結果をゆっくりじっくり指し示しながら、 ていねいな口調で説明された。先生の声はいつも安心感を与えてくれる。 そこで告げられたのは、ほんとうにおとなしい癌だったこと、顔つきが良い癌だったこと、進行が遅く増殖率が半分になっていたこと、転移がないこと、この癌は一般的な乳がんではなく特殊型でしかもその他に分類される珍しい癌だったこと、しこりの大きさも開けてみれば1センチにもなっていなかったこと、そして「再発のリスクはゼロではないけど、定期健診だけで大丈夫でしょう。つまり無治療でいいということです。心配なら抗がん剤やりますけど、どうしますか。」と。 もうこれだけで十分、こんなことがあるのか、またグルグル・・・抗がん剤不要、無治療で終わる。何度も頭の中でグルグルして、ビックリして、そのあとの先生の話も入らなかった。会計待ちの間、涙がぽろぽろこぼれて、 マスクが涙と鼻水でぬれていた。癌だと告知されたときは、涙が一滴もこぼれなかったのに。 興奮しながら、皆に連絡した。学生時代のメンバーとはその日の夜、すぐにzoomで再会した。電話をくれたメンバーはその場で泣いていた。「ほんとにほんとうによかった・・・」その場で絶句して泣きじゃくる姿にどれだけ深い思いで支えてくれたのかと、どれだけの想いで心配していたのか、お互いにただ泣くだけだった。生涯その気持ちは忘れない。近くの友人も知人も、まずびっくりしていた。そんなことがあるのかと、ただ驚いていた。
人生を勝ち開くための心を伝える
今までキッチンアドバイザーとして講演や講座、を行ってきて、10年目。実は行き詰っていた。「キッチンは自分です。自分をいたわって家族も笑顔にしていこう。」といつも講演や講座で伝えてきたのに、もっと深く自分の言葉を伝えたいのに、なにかどこか薄ぺらい、うわべだけのような気がして恰好だけのような気がして、自分で限界を感じていた。自分が自分をいたわってないのに、理想論だけ伝えていたからかもしれない。それが癌に罹患し短い間にいろんなことを感じる中で、つかめたものがある。 どんな姿になっても「生き抜く」ことが最高の幸せなんだということ。 そしてどんな姿でも、みんなこの命は平等なんだと。一人は弱くても周りの支えが強ければ乗り越えらえること、だからみんなで支えあうことが生き抜くために大事なんだと。だれに悪口をいわれようが、嫉妬や妬みがあろうが、自分がめげることがあっても、自分が生きることを、まっすぐに見据えたら、そんな小さいことはどうでもいいことだと思えた。自分はどうしたいのか、どう生きるのか、命を前にしたら、いがみあったりするのはおろかだ。私が伝えるキッチン空間の作り方や選び方は、生き方を考えるツールでしかない。毎日使うキッチン、健康も生活もすべて包括しているキッチンは、ひとつのツールであって、キッチンを考える中で、自分の生き方を再考できる一助となりたいと思う。今は自信をもってそれが言える。乳がんを乗り越えて、私しか伝えられないキッチン空間のアドバイスがある。人生を勝ち開くための心を伝える全国唯一のキッチンアドバイザーとして、やっとスタートすることができた。
支えて応援して全快を祈ってくれた皆様へ、感謝の気持ちで書かせていただきました。癌の状態は人それぞれです。すべて違います。私の場合を書かせていただきましたので、誤解なきよう読んでいただけると幸甚です。
https://www.lala-plass-kitchen.com/
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