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半年ぶりに、投稿再開

もう秋ですね。記事の投稿も半年あいてしまいました。

やっと記事投稿できるようになりました。その理由は・・・・

春から夏の季節に大きな体験をして、それが、自分のターニングポイントになりました。そこから、つかんだ本当の幸せを、書いていきたいと思います。そして、この時の気持ちは、この先もずっと忘れないためにも、   あえて隠さずに書いておこうと思います。

突然の癌、告知、涙も出なかった

1年前から、食べれなくなり、急に体重が減り始めた。胃腸の調子も悪い、胃腸科にいって点滴しても治らない、薬を変えても変化なし。      なにをするにもだるくて、スッキリしない、そんな状態が半年以上続いて、4月のはじめに、脳貧血で倒れて吐いてしまった。どこで診てもらえばいいのか、自分で調べて、総合診療科にいってみた。でも、わからない。   検査を重ねる中で、膵臓がなにか、おかしいということになり、専門病院へ。そこで、造影剤を入れたCT検査で、「全身は異常なしだが、胸にしこりがあるよね、」といわれた。でも毎年健診は受けていて、触診もマンモも受けて、「良性の石灰化」だといわれていることを告げても、医師は、「癌の可能性があるから、乳腺外科へ」という。膵臓が異常なかった安心感と、 もしかして、乳がん?という不安が交錯して、帰路についた。      病院の玄関前には、本州より一足遅く八重桜が満開で、風に揺れていた。 桜の木の下にはサーモン色のつつじが、首をかしげて並んでいた。キレイだな・・・思わず写メを撮った。それにしても内科の医師が言う「乳がん」が信じられない。なんとなく、違和感もあったけど、良性だとの健診結果に安心していたし、自分が癌になるなんて、まったく想像もできない。ホルモンの関係でそうなってるだけ、という楽観的な見解を言い聞かせて、念のため乳腺外科へ。 予約でいっぱいのクリニックなのに、運よく翌日午前の予約が奇跡的にとれた。

サクラ2

本当にこの病気は多いんだな、と感じるほど、待合室もいっぱいだった。 検査着に着替えて、エコーやマンモの検査を終えてくる人たちを横目に、 座っていても落ち着かない。ウイッグのカタログ、下着のカタログが目に入ってきて、スルーしたくて、下を向いてよばれるのをじっと待っていた。  検査の結果、先生は、画像をじっとみながら、「・・・生検をします」 「これは、今までずっと健診でひっかからなかったの?」といわれて、楽観的なものではないんだな、と思った。それ以上、先生は何も言わず、診察はすぐ終わった。太い針をさして、部分麻酔で行う生検は、10日後。   この痛さを想像するだけでも滅入ってくる。なんだか不吉な予感と針を刺す痛み、毎日毎日、暗かった。友人は、脳貧血で倒れた時からもう2か月も、1週間ごとに玄米甘酒かゆを手作りして、お鍋に入れて、電車を乗り継ぎ届けてくれた。甘酒は飲む点滴だから、栄養を取ってほしい、との心遣いがうれしくって、これがなかったら、もっとやつれていたと思う。 

そして迎えた針生検の日、覚悟したより痛くはなく、かなり奥まで、ゴリゴリと針が進むのがわかった。緊張して顔が、こわばっていたのか、先生が他愛のない話をしたり、生検で採取した組織を「見る?」といって、見せてくれたりした。「あんまり心配しないで」と先生が部屋を出る時に言ってくれたけど、それすらもどんな意味なのか、本当に「一応調べただけだから、心配ないよ、癌じゃないよ」という意味にとらえたい、という気持ちと不安な気持ちを払拭させるために、言っただけかも・・・という想像がまたグルグル回りだす。考えてもしかないことをグルグル考える。あの時のやり取りはこうだった・・・先生の表情や看護師さんの話題、こんなことまで、話すなんて、やっぱり私は癌なのか、あれこれ気になって、癌だろう、いや良性のものだ、という選択がグルグル頭を駆け回る。仕方ないこと、意味ないことまで、深追いして、またグルグルの繰り返し。もし癌だったら、抗がん剤や放射線をやったら、お金はどうする、仕事はできる体になるのか、生活の不安もいっぱい、自分は家族がいない、娘も息子も自立して、遠方にいる、 両親は齢80を超え、病気をかかえながらも二人で生きている、絶対に親には知らせない、だれにも言えない、頼れない。げっそり4キロも体重が落ちてしまった。針生検をして、結果が出るまで1週間、この苦しさは、この先もっと厳しい選択を迫られる はじめの一歩だった。

あれ、一人で来たの?

1週間後、5月26日、もうドキドキ。名前を呼ばれて、深呼吸をしてドアを開けたら、「あれ、一人で来たの?」これが、先生の第一声だった。この言葉を聞いたとき「あ、もう、ダメだ」と思った。自分の楽観的な望みは、椅子に腰かける前に一瞬にして、消えた。

「告知しますね。これは癌です」先生は、じっくりとゆっくりとそう言って、生検結果の紙を指し示しながら解説してくれた。もはや頭に入らない。「がん?」また頭の中で、グルグルが始まる。でも、この3週間程、癌ではないことを強く願って、不安でいっぱいだったから、「癌です」といわれて、少しほっとしたのを覚えている。                 自分が戦う相手がはっきりわかったという安心感なのか、どっちだろう?と逡巡する落ちつかない気持ちに、はっきり見切りがついたからなのか、  とにかく、なんだかほっとしたのは、はっきり覚えている。       癌を告知されて、「ほっとした」なんて考えもつかないだろうが、そのくらい苦しかったのだ。                        「まだ調べないと治療方針がたてられないので、さらに詳しく精密検査をします」、言われて、全身転移を調べるために、CT,MRI と検査の予定が組み込まれる。次々に手術にむけて予定がはいってくるので、悲嘆にくれる暇もない。看護師さんと検査日程やら、説明を聞く。ここからは気持ちが追い付かないスピードで、さまざまなことがどんどん進んでいく。       会計を終えて病院をでて、友人にLINEした。「がんだった」と。     でも涙は出ない。泣きたいのに泣けない。泣けないんだ。涙がでたらどんなに楽だろう、と思った。家についても、信じられない、受け入れられない、私、どうしたらいいんだろう。まず、気持ちを落ち着かせるために、仕事のスケジュール調整をしなければ・・・できれば仕事先にも言わないでできるものか、迷惑かけないか、またグルグルしだして、ご迷惑をかけないように最低限、関係関連に電話をして、事情を話した。電話の向こうでみんな、泣いていた。「ご迷惑をおかけしないようにします」それだけが精一杯だった。

だれにも言えない、年老いた両親には絶対言わない、子供たちには、どうしよう、と思ったけど、看護師さんに言われたことを思い出した。    「子供さんたちは、この検査をしたこと、知っていますか」と。やっぱり、一応伝えなくてはいけないのかな、と思った。同時に、これが、子供たちや孫、お嫁さんでなくて、自分が癌になってよかったぁと、思った。    それだけは救いだった。自分ならどのくらい痛いのか、苦しいのか、わかる。でも、もし子供たちがなっていたら、今よりもっともっと、苦しくてつらくて、気がおかしくなるくらいだったと思うから。          子供たちに、伝えた時にその思いが先に出てしまって、「癌になったのが、お母さんでよかったよ、あなたたちだったら、お母さんはもう気が狂うほど、苦しかった」と伝えていた。「お母さんは、負けない、必ず勝つから、それをしっかり見てほしい」と決意表明までしていた。本当は、真っ白だったのに、子供たちに伝える時には、親は、強くなるんだなと思った。   「自分は親なんだな、」と思った。さらに10日後、精密検査の結果、  ステージ1 リンパ転移ななし、だろうとのこと。でも、実際は手術して、取ったものを調べて最終診断になるとのこと。まずは、手術先行でいきたい、と先生の見解。でも、ここからがまた、苦しい選択の判断が待っていた。

治すことを考えましょう

「手術日は7月8日です。」決戦の日は決まったけど、温存か全摘か、乳がんは女性にとって、酷な選択だ。「再発リスクを考えると全摘が望ましい」と先生。でもそれを受け入れることはすぐには判断が出来なかった。  「そんなカタチにこだわるわけ?」「もう60近いばばあなんだからさ、結婚するわけじゃないんだからさ、だれに見せるわけじゃないし、全部きっちゃえば 終わるじゃん」そういう友達もいた。きっと、手術を迷う自分に、後押しする言葉だったのはわかる、だけど酷だった。自分ならこんなこと、言えないな、と悲しく感じた。自分で納得することはそんな簡単なことじゃないんだ。

10年前に右股関節、6年前に左股関節の置換手術を経験していた。骨の手術だからやはり、怖かった。でも骨の代わりにチタンを入れる手術だから喪失感はなかった。代替品を股関節に入れ替える、そんな感覚だった。   術後の入院中が一番きつかったし、歩けない不安、杖をついて仕事に行くこともすごく勇気が必要だった。やっと、歩けるまでになって立って、講演活動もできるようになった。今度も2つあるうちの、片方の胸だ。でも今度は本当になくなってしまうんだ。しかも代替品はすぐにはできない。この想像もつかない喪失感は、もっともっと自分が暗いマンホールに落ちていくような感じがした。                           鏡の前で、右の胸に手をあてて、これがなくなるのか、と何度もシュミレーションした。何度も何度も胸に手をあてて、消してみる。だけど想像できない。乳がんだからといって、半年以上続いていた胃腸症状も不定愁訴も特に進行することもなく、どこかが痛むわけでもなかったから、ほんとに癌なのか?と疑ってしまうこともあった。看護師さんに聞くと、「特になにかが急に進行するわけではありません」というし、ますます病気を受け止められない。

病気について何の知識もなかったから、自分なりに調べ始めた。ますます怖くなった、そしてまたグルグルが始まってしまった。手術の術式を温存か全摘かを決めなければならない、もう時間はない、だけど胸をとったら、そして抗がん剤で脱毛したら、私はお風呂に入るたびに気が狂ってしまう・・・ずっと考えてしまった。「先生、開いてみてやっぱり温存できました」ってことはありませんか、と愚問を言ってみたりしても、先生は寄り添ってくれて「治すことを考えましょう」と一言。 そして、こうも言った。「抗がん剤を心配してるんでしょうけど、取ってみてから治療方針が決まります。 やるかやらないかはそれからです。いまは手術にむかって準備してください」「治すこと」という言葉が、心にドンと響いた。それからまた、診察を受けて、手術について、さまざまに説明をしてもらって、自分から先生に言った。「切ってください」。

「切る」選択をするまでには、眠れないほど苦しかった。そんな時、「髪の毛の代わりはウイッグがある、胸の代わりも下着がある、だけど命の代わりはないんだよ」と知人にいわれた。見栄えばかりに気を取られていた自分に気が付いた。先生も「治すこと」と言った。今の私には、自分で動くこともできる、両方の股関節の置換手術も経験して、歩けないつらさも体験していたから、自分の足で移動できることがどんなに素晴らしいことかもわかっている、声が出る、胸が1つなくなっても、「生きる」ことになんの支障もないんだ、胸だの髪だの、見えることばかりにこだわっていたのは、「見える」ものでしか価値判断ができない自分の傲慢さではないか、ということに気がついた。どんな姿になっても、みんな懸命に生きてる、どんな姿になっても、「生きること」が最高の幸せなんだ。そこに気が付いた時、本当に心から納得して「切ってください」と先生にいえた。手術まで14日をきっていた。

退路を断つこと

そして、もう一つ、大きな決断と挑戦をした。なんだかんだといいながら、不安なのに、いや不安だから、ウイッグのあれこれを調べて費用の計算や手入れの手間やどんな髪の毛がいいのか、などをカタログを取り寄せたり、 インターネットで検索しては時間が経過していた。髪の毛だけじゃない、 まつ毛もまゆ毛も抜ける。親交のある美容家の先生が、メイクを教えてくれると、言ってくれて元気をくれたし、美容室でも「できることはなんでもさせてもらいます!」と励ましてくれた。胸も対応できる下着もあったし、 なんと3Dで同じ胸を作ってくれる脱着可能な胸もみつけた。なんとかなるんだ!そう思って胸を失っても、補うものを見つけた安堵感は、一筋の希望につながった。でもでも・・・やっぱりめげる。だからやめた。     こうして、まだ起こっていないことに答えを出すことを。治療が決まっていないのに、先回りしてあれこれ考える。備えは必要だけどそれに歯止めがかからなくなっていた。これが今まで生きてきたクセなんだ、不安だから考える、だからもっと不安になる、このグルグルの負のループを断ち切ろう、 だからカタログはすべて捨てた。ネットも見ないと決めた。起こってもないことにおびえて、先回りして防御してきた生き方は、明るくない。    ネガティブだ。この潜在意識の在り方がいつしか、自分を抑え、中にこもり、自分にも人にも「許す」ことができない要因だったと思った。私の乳がんはホルモンに起因するものでもなく、異質なたんぱく質に起因するものでもなく、どこにも当てはまらない癌だといわれたんだから、自分の思考のクセが細胞を壊してしまったのかもしれない、本当にそう感じた。私は抗がん剤治療はしない、癌細胞はキレイに変わる!言葉に出して、日記に書いて、自分を鼓舞して、退路を断った。無意識の潜在意識と言葉のとおり、ものごとは進むものだから。

後編につづく ↓

https://note.com/misesunomikata/n/n27abfb13f164

https://www.lala-plass-kitchen.com/



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