「されど愛しきお妻様」を推す理由1

 あちこちで既に言いまわっているが、鈴木大介さんの「されど愛しきお妻様 『大人の発達障害』の妻と『脳が壊れた』僕の18年間」はとにかくすごい。前作「脳が壊れた」と併せて全人類が読むべきなんじゃないかな、と半ば本気で思っているし口に出して言ってもいる。著者の鈴木大介さんは苦しんでいる当事者やそのご家族に届いて欲しいと願っておられるが、(もちろん私もそれを願いつつ)いわゆる「支援」の現場にいる人々にだって必要だと思うし、別に発達障害や高次脳機能障害に(現時点で)関わりのない人々にも、さらにはこれからを生きる子どもたちにだって届け!と念じてさえいる。いやほんとに、「ツレうつ」みたいに映像化されないかな。せめて漫画化はどうでしょう。「ツレうつ」はもともと漫画だから、文庫にやってくる子どもたちも結構熱心に読んでるもんね。

 なんでこんなに「あらゆる人に届け!」と言いふらしているのかというと、この本は当事者の闘病記というカテゴリーを軽々と超えて、もっと大きな「ひととひととの関係」「ひとと社会との関係」・・・非常に大仰な表現が許されるのであれば、「これからどう生きていったらいいのか」ということを考える上で全く新しい視座を与えてくれるからである。形としては、社会的困窮者を対象に取材活動をしていた著者が41歳の若さで脳梗塞に倒れ、その後に経験した高次脳機能障害による様々な困難や苦しみをベースにして「大人の発達障害」さんの妻を理解し家庭生活を変えていく・・・という話なのであるが、そこには「夫婦(家族)とは?」「家事とは?」「理解とは?」「障害とは?」「治療とは?」「平等とは?」という無数の問いかけがひしめき、著者と一緒になって既存の在り方や定義を更新していくことになる。

 お妻様の無茶苦茶ぶりが著者の鈴木大介さんの愛ある描写で何度も胸キュンだし、考えどころ満載すぎて全てを語ることはできないが、今回は私が最もガツンとやられた部分を取り上げたいと思う。

 大人の発達障害のお妻様は、家事の必要性も感じていないし、1人では段取りよく家事をこなすことができない。夫である著者はそのことに対してずっと不満があったが、「自分でやったほうが早い」と全てを自分が背負い込んでいた。しかし病に倒れて高次脳機能障害を経験することによって、著者はなぜお妻様がそれ(家事)をできないのかを理解し、何が苦手で何が得意なのかを考えて、二人で補い合って家事をまわしていく工夫をするようになった。お妻様はそうして工夫された環境下では家事ができ、またどんどん進化(学習)もしていった。もちろんお妻様には依然としてできないこともあるし、時間もかかるから「作業量」は夫の方が多いままである。しかしその経緯の中で、著者はこう記している。

 けれども、僕らは間違いなく平等になった。なにが平等なのかと言えば「頑張っている量」が平等になったのだ。お妻様と並んで家事をすることが増えていく中で、僕はこの「頑張る」ということを、ずっと考え続けた。
 頑張るってなんだろう?僕なりの結論は、頑張るとは「脳がたくさんのカロリーを消費する」ということだ。とかく人は、作業をした結果として目に見える量や質をもって、その作業をした者の努力の量を測りがちだが、果たしてそれは正しい評価ではない。
(中略)
 彼らは疲れやすいのではなく、同じ作業をしても力全開でめちゃめちゃ頑張ってるから疲れるのだ。疲れとは作業の量とは比例せず、脳をどれだけ使ったかに比例する。

 この部分だけで感じ入ることがありすぎるのだが、まず目に見えない脳の機能障害を持つ方々の努力を「結果(作業量と質)」で測るのではなく、「頑張っている量(=脳の仕事量)」で測るべきとの主張に「おおおお!」と目から鱗を落っことした。そしてこれは障害の有無に拘わらず、というか程度の差こそあれ私たち人間はそれぞれ脳の特性を持ち凸凹はあるんだから、全ての人に共通して主張できたらいいんじゃないかと思ったのである。空間認知に難ありの私はよくコピーとりに失敗するが、別にどうでもいいと思っていい加減にやってるわけではない。頭が混乱しつつ焦りながらコピーをとっても、なぜか左右あべこべの資料が印刷されてくる。でも本人としては、すんごい頑張ってコピーをとっているのであり、脳の仕事量は(それが得意なヒトと比べると)めちゃくちゃ多いのだけど、結果だけみれば全く評価されない。評価してくれ、失敗を許容しろと主張したいのではなく、もしコピーが得意な人が瞬時に「こっちを右、こっちを左に置いてコピーとってきて」と一言添えてくれたら、私の脳の仕事量はセーブできる。そうしたらきっと余っている仕事量で、別のことだってできちゃう。そうやってコピーが得意なヒトと、苦手なヒトとで平等な仕事量が実現する。結局ヒトは苦手な作業において脳の仕事量が増大し、得意な作業では省エネ稼働できるのだ。だったら合理的に考えて、基本的にはそれぞれ得意なことを引き受け、苦手なことは得意なヒトにアシストしてもらえばいい。とどのつまり、みんなで手分けしてしなければならないことを、できるだけ脳の仕事量を平等にして分担する、その視点がどうしても必要なのだ。

 でも今の社会はどうだ?競争、自己責任、自立。そんなことばっかり植え付けられて、「なるべく人に迷惑をかけないように、自分でなんでもやれるようにならないと。」そう思わされてきてないか。私だって「どっちを右にしたらいい?」と聞けずに、1人でアタフタとコピーをとって失敗している。たかがコピーでこんな有様なのだ。

 そんな世知辛い世界をスルリと抜け出す世界観も、実は本書で描かれている。日々進化するお妻様に「ひとりで料理をやれるようになるか」と著者が問うと、お妻様はこう答える。「かもしれんけど、あたしは今は、こうして大ちゃんと一緒に家事をしたり台所に立つのが、楽しいし嬉しいよ」

 号泣。(←私が、ですよ。)

 自分の能力を高めていった先に何があるんだよ?
 という話なのである。

 お妻様は別に自分ひとりで料理ができるようになりたいわけじゃなくって、ただ単に「ふたりで仕事をする」ことが「楽しいし、嬉しい」のだ。そう、「楽しいし、嬉しい」から日々そこにコミットしているのだし、結果能力なるものが高まっているのである。その逆では決してない。もし夫の大ちゃんとともにしているこの家事が、「いずれ自分ひとりで自立して行うため」の訓練だったとしたら、お妻様はこんなふうにコミットしただろうか。

 してないと思う。
 だって大ちゃんと一緒に台所に立ちたいんだから。

 でも残念ながら世に言う「支援」なるものは、自立への訓練という体をなしている。社会も、教育ですら、「自立、自立」と口うるさい中で、当然といえば当然である。

 しかし、お花畑と言われようが、もう私は声を大にして言っておきたい。「一緒にやったら楽しいね。」が先なんである。一緒にやる、が前提の中で、自分の力を伸ばし、(何かを苦手とする)他者のために自分の力を使うことを学んでいくのだ。だから「一緒にやったら楽しいね。」というしごとを生み出したり、そういう環境を丁寧に整えていくのがいわゆる「支援」なのではないだろうか。厳しい世の中をサバイブし、社会に適応するために、あるいは(本当はありもしない)「フツー」を目指して個々の能力を訓練するだけじゃなしに。

 この社会でこんなことを言ったら叩かれると思うが、「結果を出すこと」を目指さない場所が社会のあちこちに用意されることを私は望みたい。「結果を出すこと」が求められる仕事があるということも、分かっている。とりわけ人のいのちや安全に関わってくる仕事に、「結果を出すこと」を求めないわけにいかない。でもそういった仕事こそ、個人の能力に依存せずに組織として、社会として「結果を出す」仕組みが必要なんだと思う。たとえば家庭生活や、個人の健康が犠牲にされた上でしか「結果」を出せないのだとしたら(それがたとえ本人が「仕事を優先したい」と望んだことであろうとも)、システムとしてあまりに脆弱である。身体という有限のシステムを携えて生きているヒトの集まり。いつかどこかで「結果を出す」ことができなくなるかもしれない。

 「家事」もどういうわけか「結果」としてみなされているが(私自身もその呪縛の内に多少なりともある)、でも本当は日々の営みそのものなのだ。ぴっかぴかの家だとか、完ぺきな食生活だとか、そういう結果のためにあるんじゃない。いっしょに生きている人たちと、なるたけ健やかに愉快に暮らしていくことそのものなんだから、その中でできる人ができるようにやっていけるといいなと思う。

 あぁやっぱりこのテーマだけでたくさん書いてしまった。本当は「なぜお妻様を治療しないのか」という議論についても触れたかったのだが。それはまた次回以降ということで。

※「されど愛しきお妻様 『大人の発達障害』の妻と『脳が壊れた』僕の18年間」
鈴木大介著, 講談社, 2018.

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