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主体的で自由な

 公立中学校へ通いながら,時々フリースクールのアクティビティに参加もしているムスメ氏。登校フリースタイルを開拓していっているのだけれども(もちろん本人にそんな自覚はない),それが可能なのも中学校が彼女の選択を全面的に支持してくれているからである。「学ぶ場は中学校だけじゃない。フリースクールでの学びもムスメちゃんにとって大事な学び。」ということを積極的にムスメ氏に伝えて下さりもして,彼女は必要以上に引け目を感じることなく,その都度自分にとって必要な場所を自由に選択している。本当にありがたい,と心から感謝している。これがもし「渋々特例的に認めましょう」的な対応だったとしたら,ムスメ氏は周囲の目を気にして主体的な選択ができなかっただろうと思う。彼女が自分の気持ちに正直に,自分で学ぶ場所を選ぶことができるのは,どの選択をしてもOK!を出してもらえる環境があるからにほかならない。主体性っていうのはその人個人の中に閉じ込められているものなんかじゃなくって,周囲にいる人々を含めた環境と自分とのあいだにあるものなんだなとつくづく思う。

 しかしながら小学校の後半で学校に行かなくなった彼女に対して,それも主体的な彼女の選択だというふうに受け止めてくれていた方々に励まされたけれども,私は私の立場(親という立場)においてそのことに同意することは,今でもできないでいる。周囲の方々がムスメ氏を「学校に行けない子」としてみるのではなく,彼女の意思を尊重する眼差しを向けて下さるのは本当にありがたかったし,親子ともども救われていた。そしてもちろん私も彼女の選択は間違っていたなんて思っていないし,というかむしろ結果的にみても英断でしかなかったと思っているし,学校が全てだとは当時も今も全く思っていない。

 のだけど。
 でもやっぱり彼女はよりどりみどり素敵な選択肢がある中で「学校へ行かない」ことを選択したんじゃなくって,それより先行したのはまぎれもなく「居場所を失う」という悲しい経験だったのだ。親としてはやはりその彼女の悲しみや苦しみを「なかった」ことにどうしてもできないから,「学校へ行かない」のは主体的な選択である以前に,周囲に強いられたものだという思い,ふざけんじゃねー!という憤怒はゼロじゃない。というか確実に私の中に今もまだねっとりとあるのを感じている。それは今の私たち(親子)が,「あの時学校行かなくて正解だったよね。」と受け入れていることとはまた別の次元での話で,「結果よければすべてよし」にされてしまっては浮かばれない思いだってあるんだよということは言い続けていきたいと思っている。

 そしてそのことは我が子に対してだけではなく,現在不登校といわれる状況にある子どもたちみんなに対しても同じように思っている。彼・彼女たちの「学校へ行かない」選択は100%支持で丸ごとオッケー!と思ってるし,そう接してもいるけれど,その選択によって彼・彼女たちが失っているもの(機会)に思いを馳せずにはやはりいられない。それは人によって「友だちと学びあうこと」かもしれないし,「体を動かすこと」かもしれないし,「教科学習をすること」であるかもしれない。学校へ通っていれば用意されていること,自然に生まれることも,学校を離れてしまうと途端にレアな機会になってしまうという経験は私たち親子もしてきた。そして現状それを補う場は「選べる」ほどにたくさんあるかといったらそんなわけでもなく,また学校側がオルタナティブを提示してくれるわけでもないから,「主体的に選ぶ」なんてどこの夢の国の話?で,単に機会喪失を引き受けざるを得ないということのほうが圧倒的に多い。そんな中でもムスメ氏は出会いに恵まれて,楽しく過ごせる居場所をフリースクールに見つけられたのだが,彼女が学校という学びの場に求めるものを全てカバーできるわけではもちろんなかった。

 とりわけ深刻だと思ったのは,ここでも何回か書いていたかと思うが,教科学習の機会を失うことだった。私が知らないだけで身近に学習面での支援を受けられる場所があるのかもしれないが,少なくともムスメ氏はそうした支援につながることができなかったし,見聞きしている子どもさんたちもそれは同様だった(そうした支援を必要としていない子どもさんも,もちろんいらっしゃるが)。そして不登校の状態にある子どもさんたちに限らず,様々な事情で学ぶことに困難を抱えている子どもさんたちへの支援も必要なところへ届いていないようだった。それらは高いお金を払えば得られるもの(塾とかね)もあったが,そもそも求めても質量ともに現状不足しているものもあった。「まじか。」当時者になってみるまで,子どもたちの多様な「学び方」がこれほどまでに保障されていないということに気づかなかったよ・・・ちーん。

 教科学習,教科学習って言っていると教育ママみたいなんだけど,まぁ若干その面がないとは言えないが,私はなにもお勉強してテストでよい点を取り,よい学校へ進学してよい会社へお勤めする(もしくは専門職につく)ことを子どもたちに求めているわけではない。ていうかどれだけお勉強ができてもブラック企業で思考停止状態にされて殺されてしまうなんてことが起きてしまう社会で,「勉強ができたら成功」なんてことを信じられるほど能天気ぢゃないよね。でも義務教育で学ぶ程度の基礎学力は,それぞれのペースでいいから身につけて欲しい,とは思っている。それは子ども一人一人の権利だと思うし,その権利を保障する義務が大人にはあると思う。

 なんのための基礎学力かっていったら,そりゃもう主体的に,自由に生きていくためだ,としか言いようがない。自分の頭で考え,様々な選択肢を吟味して選ぶこと。そのためには世の中について,自分について,他者について,よく知る(知ろうとする)ことが必要だし,書かれたものを読み,人の話を聞き,比較のための計算ができないといけない。もちろん自分の能力で全てを賄えっていう意味ではなくて,どうしても苦手で人やツールに頼ったほうがよければそうしたらいいんだけど,そのためにも「自分にできること」と「自分が苦手とすること」を知って,苦手を補う代替的な方法まで獲得しておきたいと思う。力業で無理してテストでいい点を取ることよりも,ながーい人生と生活を自分で切り盛りしていくためには「苦手なことを補う方法」を知って実践できる力のほうが身を助けると思う。きっとそうしたら,苦手を根性で乗り越えないといけない理不尽からも,苦手を避け続ける不自由からも自由でいられる。

 私自身も基礎学力が十分で,自由で主体的だなんてとてもじゃないが言いきれない(生きているあいだ,ずっと学びが必要だ)。でもこうして文章を書いて表現ができるっていうのは基礎学力がそれを支えてくれているからだと思っている。そしてそれは振り返ってみればそうだというだけで,基礎的な学習が将来自分の何に役立つかなんてことは誰も知り得ない。

 ムスメ氏も「新体力テストの方法もテストに出るんだって~。何の役にたつんだろー?」とブウブウ言っていたが,その気持ちも分からんでもないと思いつつ,やっぱりたしなめてしまった。「あのさ~,今やってることが将来どんな役に立つかなんて,今の自分には判断できないんだよ。学んで成長した自分にしか,きっと分かんないんだよ。まぁ暗記したくないんだったらしなくてもいいけどさ(←いいのか!?とツッコミが入りそうだけど,いやガチで暗記する必要はないわなぁ・・・ネットでいくらでも参照できることを頭の中に入れないといけない理由は私も思いつかない)。」

 でもさ,と続けた。
「新体力テストって何のためにしているかは習ったの?(習ってなーい)どこが管轄してるんだろうね?(えー知らない!厚生労働省?)中学校ってどこの管轄か知ってる?(文化庁?えー分かんない。何省があるの?)おう,何省があるのか調べてみようか。おかーさんも全部は言えんなぁ・・・(ムスメ氏ググる。そしておかーさんが省庁列挙にチャレンジするも,全部どころか半分も言えてなかった・・・)おとーさんにもチャレンジしてもらおう。(←おとーさんのほうがよく知っておった・・・こうして大概おかーさんの権威失墜)」

 というなっがーい行程になったわけだけれども,「何の役にたつのかわかんなーい」と言いつつ与えられた課題を奴隷のようにこなすんじゃなくて,その中に興味関心や問いを見つけて自分なりに学べればいいよね?ということが伝えたかった。その後ムスメ氏は新体力テストの統計データが知りたいと言って検索し,なにやら一人でニヤニヤ楽しんでいた。何がそんなに楽しいのか私には分からなかったけど,そしてきっとテストでいい点をとるための学びでもないけど,いつかどこかで何かの学びや経験とリンクしていくんじゃないかな,と思う。そしてそれがどう実を結ぶのかなんて今の私たちには分からないが,少なくともそうやって学びの網を広げていくためには「興味を持ち,読み,書き,計算する」という基盤が必要なんだと私は考えている。(しつこいようだが自力で読み書き計算できなかったら,デジタルツールを駆使して代替したらいいということを含意している。)

 そんな思いもあって先週ご案内した「ラクエスト」の運営を始めることにした。楽に楽しく学んだ先に,主体的で自由な生活がつながっているといいな,と願っている。

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