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衝撃的変化の伏線

 前回,綾屋さんと熊谷さんの共著「発達障害当事者研究」との出会いによって,目から鱗をごっそり落とした話を書いた。で,鱗が落っこちたと同時に「私とあなたの身体(≒脳みそ≒知覚)は違う」という思考回路がデフォルトになった新しい身体(≒脳みそ・・以下略)にバージョンアップ。もちろんいいことばっかりではなくて,「なんでもそれ(身体の問題)に見えてしまう」っていう弊害だって無きにしも非ずなんだが,でも私はこの変化自体は免れなかったんだと思っている。

 というのも,実はこの話には伏線があるのだ。たまたま「発達障害当事者研究」を手に取った頃,私は大学院で取り組んでいた研究の一環でメルロ=ポンティというフランスの現象学者の「知覚の現象学」を読んでいた。まぁ正直なところそこに書かれていることの半分も理解できてないんじゃないかと思うのだが,読みながら「はぁ??知覚ってそういうことだったん!?」とたいそうたまげ,かつワクワクしていた。そんなふうにどういうわけかその頃私に「知覚 驚くべきこの世界」ブームがやってきていて(取り組んでいた研究そのものは知覚の研究なんかぢゃないのに),そこに「発達障害」との出会いが重なったのである。

 いろんなことがしっくりきた。
 書き出すときりがないんだけど,たとえば。
 ものを見る,音を聴くなんていう知覚の働きは,刺激をそのまま受け取っているだけではなくて,たとえば会話をしている相手の言葉を聴くために,エアコンの音やら外を行き交う車の音を「背景」に退かせる(聞こえているけれども,聞いていない状態を作る)なんて複雑なことをしちゃっているんだということを,私はメルロ=ポンティから学んだ。そうやって自分にとって必要のない情報(刺激)を「背景」に沈ませて,必要な情報を「図」として浮かび上がらせるミラクルな知覚の働きが弱いか,機能低下をしていると,全ての音源がそのままの音量でもって脳内に鳴り響いてしまって,うるっさくて大事なことを聞きとることができない状態に置かれる。そんな,自分にとって意味のある情報とそうでない情報が等しくがなりたてるような世界,言い換えれば「全ての情報(刺激)が等価に並んだ世界」に住まうという経験をしている人々がいるのだということを,私は綾屋さんの記述から知ることとなった。

 「知覚というのは私が思っていたよりもはるかに複雑でミラクルな働きをしている!」という驚き。
 「でも知覚がミラクルな働きっぷりを見せてくれない人たちがいて,結果どういうことが起こるのか」ということを知って,ダブルの驚き。

 それが,私と発達障害というテーマとの(衝撃的な)出会いの全容である。もし私が「知覚ってミラクルやなぁ」という経験をしていなければ,おそらく綾屋さんの素晴らしい記述も「そんなこともあるんだなぁ。」という程度にしか受け取れなかったかもしれない。なぜなら綾屋さんが記述された経験は,私が知らん間に私の身体が勝手にしてくれちゃっていることとの対比の中で,よりくっきり鮮明に浮かび上がってきたからである。

 そしてこの驚きの連鎖は,こんなところで止まらない。当事者といわれる方々のお話を「こころの問題」に分類する前によくよく聞いていると,逆に私が普段当たり前にしていること,身体が勝手にしちゃってくれていることが浮かび上がってきて,「なんで私,知らん間にこんなことできてるの!?」と驚いたりなんてこともある。驚きのぐるぐる循環サイクルの中を泳いでいるかのようで,常に私,驚いているんである。そりゃそうだ,自分が当たり前にしていることが当たり前じゃないってことに気づくこと,当たり前じゃない世界が別に(パラレルに)存在していて,その存在のありようを垣間見ること,それらに驚かないはずはない。

 メルロ=ポンティが「哲学とは,世界を見ることを学び直すこと」って言っているんだけど。
 「うっわー!めっちゃ分かる!分かりみ半端ないっす!私それ地で行ってる気分です♡」って,メルロ=ポンティに力強く右手を差し出したい気持ち。

 そんな甘いもんじゃないって,断られそうやけど。

 まぁとにかく「当たり前」を問い直していくことは,不謹慎に聞こえたら申し訳ないけれども,新しいことを学ぶという意味においては楽しいことでもあった。ただ私自身は「当たり前を問い直していこう!」とラディカルに取り組んでいるというよりはむしろ,「あなたのそれ,当たり前なんですかねー?」と問い直しを「促され」続けてきた,という感覚に近い。そしてその受動性は,「私自身に選べなかったことがある」ということを意味する。つまり,当初の私の本意でなかったことまでもが「問い直し」されてしまった,ということである。

 端的に言えば,自分が「当たり前」と思っていた場所を「当たり前」とは思えなくなり,そこに自分が居られなくなっちゃったのだ。梟文庫という場所を作ったのは,言ってみればまぁ,そういうことなのである。

 だから私は,「当たり前を問い直す」ということに暴力的な側面があるということを知っている。それゆえ,何でもかんでも問い直したらいいなんて思えないし,口が裂けても言いたくない。もちろん私は今の自分の状況を受け入れているし,これでよかったんだと思っている。でもやっぱり,もし選べるのなら選べたらいいと思うし,とりわけ他者に対しては慎重でいたいと思っている。

 でも,ひどく矛盾するようではあるが,私は「自分の当たり前」に気づくこと,そしてそれは他者のそれとは違うかもしれないことを学ぶ必要があるとも考えている。多様な人が多様なままで暮らしていける社会を創っていくためには,自分にとっての当たり前を他者に強いる前に,それを問い直し,他者のそれを想像し,尊重できる力が各々にとって重要かつ必須ではないかと思うからだ。そしてそれは逆もしかりで,「あなたとは違う私の当たり前」がどういうものであるか自分自身がまず知って,自分の「当たり前権」(人権とも言う)を自分で保障しつつ,他者にもそれを侵害されない,ということだって大切なんだと思う。

 とりわけ,これからを生きる子どもたちと一緒にその力を育み合えたら。

 そんな願いが,「発達障害の子どもたちの学習支援」の学びへと私を向かわせている。それについては,また後日ということで。

引用
M.メルロ=ポンティ,竹内芳郎・小木貞孝共訳, 「知覚の現象学1」,1967,p24.

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