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NYのブッククラブで「羊と鋼の森」を読んで感じたこと

こんにちは、ご無沙汰しております。NYに住むみさとです。
今回は、以前も何回かアップしているNYで私が参加しているブッククラブのお話です。日本語を勉強しているアメリカ人たちが、日本の本を日本語で読んで、日本語で語り合うという会です。(なぜかそこに紛れ込む日本人の私。爆)今月は宮下奈都さんの「羊と鋼の森」を読みました。

舞台は北海道の小さな町、山育ちの純朴な青年 外村が、ピアノの調律師を目指すという内容です。そのお話をニューヨーカーと語り合うというのは、なかなか面白い経験でした。

今回本を読んで感じたこと、ブッククラブで話したこと、そこからの気付きを書きたいと思いますが、うっかり図書館で借りていた本書を返してしまったので、私の記憶から(不安しかない)の内容になります、細かいところが違っていることもあるかもしれません、ご了承ください。


この本との出会い

この本は実は今回で読むのは2回目です。
昔購入した本が東京の実家の本棚に置いてあります。確かこの本を買ったのは、2016年に本屋大賞を取って話題になっていたタイミングです。と考えるともう7年前。
私もピアノを弾くのですが(最近は全然弾いていない。汗)ピアノが好きだし、調律という切り口からピアノを語るこの物語に当時興味を惹かれました。

私は小さい頃から高校生の途中?くらいまで、ピアノ教室に通っていました。家には一台のヤマハのアップライトピアノがあって、姉と私が弾いていました。
私の日本の友達も、ブッククラブのメンバーも、ピアノを習っていた人の経験で、結構ピアノの先生って厳しくて、ピアノを習うのが好きじゃなかったという人が多くいました。私のピアノの先生はとても優しくのびのびと子供に弾かせてくれる素敵な先生でした。私はピアノを弾くのが苦痛だった思い出はあまりなくて、基本的にピアノは私にとって楽しいものでした。だからずっと続けて今もたまに弾いたりしているのかもしれませんね。
うちにも一年に一回調律の方が来てくれていました。小さい頃は、私が学校から帰って、普段は写真立てなどでごちゃごちゃしているピアノの天板の上がスッキリしているのを見て、あれ、今日調律きたの?なんて気づいたり。実家のピアノは今は誰も弾いていないけれど、それでも調律師さんは定期的に来てくれているようです。
この本では、主人公の外村が、ピアノを弾いたこともない、コンサートにも行ったことがない、ピアノの曲も知らない、というまっさらな状態から、調律に出会い、自分の目指す美しいピアノの音を作り出せるような調律師を目指し成長していくお話です。本の中では、ピアノの音の表現がたくさん出てきます。
私は全然ピアノは上手くはないし、語るのはおこがましいですけど(笑)それでも、心を込めてピアノを弾いた時のピアノに心がのる感じとか、ピアノが歌う感じとか、ピアノによっての音の違い、弾く人によっての音の違いなんかは、感じることがあります。だからピアノを少しなりとも知っている私にとってはこの本は美しく楽しかった。読んだのがかなり前なので正直内容は結構忘れていたんですが、その時の感覚は強く覚えていました。本を開くたび、ページをめくるたび、その文章から、空気が、匂いが、湿度が、風が、そよっと吹くような気がしたんです。その感覚に心が酔いしれて、本を読み終わりたくないとさえ思いました。
当時の私は、この本がとても気に入って、母に強く勧めました。母は本を読んだ後で、一言、「あんまり好きじゃなかった」(ドーン!)え!なんで!?と、私はショックを受けたことを覚えています。今回ブッククラブで話し合ったことで、母の言った意味が少し分かった気がしました。

それぞれの感じ方

今回改めて読み直して、所々の印象的だった話のカケラは覚えていても、全体としては説明できるほどストーリーを覚えていないことに気づきました。読み終わって、なるほど内容を覚えていなかった理由がちょっとわかりました。その理由は痛烈に言ってしまうと、特別に大きなドラマが起きないから。この本はドラマやストーリー展開を楽しむ、と言うよりは、読むこと自体を楽しむって感じの本だなと。(ストーリーももちろんあって、もちろん面白いんですけど、どちらかと言うと。)
その美しい文章や、そこから伝わる情景、それ自体をしみじみと楽しむ。そんな楽しみ方な本の気がしたのです。雨の日に一人静かにゆっくりと美味しい紅茶を飲むような、そんな感じ。

今回ブッククラブで複数の人が、「この本は好きだったが、本の半分くらい何も起こらない」と言っていました。笑 母があまり楽しめなかったのは、そう言うところから来ているのかもれないですね!

この本では、主人公の育った田舎の森についての描写がよく出てきます。ブッククラブ参加者は、ほとんどNYで育ったアメリカ人達。そんな彼らが日本の静かな薄暗い湿った森を想像するのはやっぱり難しい。原風景がそもそも違う。私も読み終わった後にふとそこに気づきました。これはイメージする原材料が内側にない人には、なかなか入ってこない話なのでは?と。
ピアノの音に関しても、明るい、弾んだ音、玉のような、音が丸い、とか、音の響き方とか、どこまで音が届くかとか、そう言ったことがたくさん出てきます。実際、参加者の一人が、「自分はピアノも弾かないし、音楽を奏でること自体しないから音をイメージするのが少し難しかった」と言っていました。しかし続けて、「それでも結構この文章を楽しめた」と言っていたのを聞いて、ほっと胸を撫で下ろしました。

全体的には、普段は派手な話展開やドラマが好きなニューヨーカーの参加者達も、この本は日本らしくて良かった、と楽しんだ様子でした。

正反対の 外村 VS ニューヨーカー

主人公 外村の性格について、私が思っていなかったことをニューヨーカーたちが言っていたのは面白かったです。
外村は北海道のド田舎の山で産まれ、音楽や、ましてやピアノには関心もなく育ってきた。高校生の時、担任に頼まれて、調律にきた調律師の板鳥さんを体育館にあるピアノまで案内する。そこで板鳥さんの調律したピアノの音を聞き、調律師になりたいと思うようになります。高校卒業後、二年間調律の専門学校に通い、晴れて板鳥さんと同じ会社に入社します。ただ、ピアノを弾くこともなく、耳が肥えているわけでもない外村は、自分の力の無さを自分でよく理解しています。音階を揃えるのがやっとで、ようやくスタートラインに立った感じ、自分が求める音が何で、どうやってその音を作れるのか分からない。
普通の人なら悔しがるような嫌味を言われても、外村は純粋に、「そうだよな、自分は全く分からないものな」と、すんなり受け入れます。

私は、外村は少し変わっていて人とは違うけれど、自分の現在のレベルをしっかりと理解し知っていて、それを真摯に受け止めていてすごいなとも思っていたのです。しかし参加者のニューヨーカー達は、何を言われても穏やかで受け入れるような外村の態度に、自信が全然ない、向上心はないのか、という意見が上がっていました。彼は見栄を張ったり、虚勢を張ったりすることはなく、仕事に真摯で真面目であるからこそ、まだできないことはできないと言う。でもその態度に、「自分はもう出来ます!一人でやらせてください!」とかなんで言わないんだ!と感じたそうです。

考えてみたら、外村とニューヨーカーって、もう真逆ですよね。外村は深い山の田舎で育って、無欲なように見えるし、大人しく静かで、本当に素朴な人。一方ニューヨーカーは大都会で厳しい競争社会を生き抜くために、人を蹴落としたり多くのものを得ようと必死になったりでギラギラしているし、ハッタリ上等みたいな文化もあるし、とにかく主張したもん勝ち、みたいな。笑
そう言ったニューヨーカーから見ると、外村っていう存在はなかなか理解がしにくいのではと思うのです。
ただ、向上心がないって言うのは、ちょっと読み間違えかも、と私は思ったり。文中でも外村は「無欲の皮を被っていて、その下はものすごい貪欲なんじゃないか」などと言われていましたし、散々ずっと一人でピアノの調律の練習をしてきていた。がむしゃらとも見えるその努力でも、外村は静かに、一人でひっそりと行っているわけです。多くを語らず、黙々と。
うおぉおお!と情熱の炎をメラメラ燃やして時には涙を流して、みたいな熱血なのとは真逆なんです。そこが外村の不思議なところで、絶対叶えるんだとか、絶対成功するんだとか、才能がないと絶望したりとか、そういうのを削ぎ落とした感じ。努力しても努力しても先は果てしなく遠い。でもとにかく外村は諦めることはしない。

それから参加者のみんなの感想で、主人公達の調律師という仕事や、主人公達が働く会社に関しての意見が面白かったです。
話の舞台の町は大きい町ではないし、会社の業務も一般家庭のピアノの調律を受け持つことが多い。大きなコンサートホールのグランドピアノを偉大なピアニスト達と音を作り出していく調律師がいる一方で、彼らの仕事は地味な仕事と言えるかもしれません。そう言った仕事を誇りを持ってやっているのがとても日本的と言っていました。そう聞くと、日本は確かに給料の多い少ないとかそういうことにとらわれず自分の仕事にやりがいを感じてやっている人が多いなぁと思います。
そういう話をしていると、やっぱり国民性ってあるんだろうなぁと感じます。総じてアメリカ人は派手好きなのかもしれないし、「成功」というところにはお金や名声みたいなものがつきものです。日本は「やりがい」とか「生きがい」とか、そういうものを大事にしますよね。
それから、これはもちろんどの国でも業種によってだと思うんですけど、新人を教育して育てる会社がすごいという意見がありました。外村が一人で働けるようになるまでに時間をかけているし、それをずっとお給料払ってサポートしてる会社もすごいと。日本って会社にはなんとなく当たり前に新人を育てていく文化がある感じですけど、アメリカは使える人を雇うみたいな感じはありますね。使えなければクビになりますし。そう言う文化の国にいれば、確かに外村が「まだできません」と言うことに対して、少しイライラを感じるニューヨーカーの気持ちも分からなくもないかもしれません。笑

環境と受け取り方の変化

今回読んで、私自身の変化も感じました。私はNYに来て、そろそろ6年経ちます。日本で7年前に読んだ時と、今NYで読んだ時と、同じ本を読んだのに、私自身がもう違っているので、感じ方も変化がありました。
また環境というものは本当に影響が大きいんだなということも再確認しました。以前に読んだときは日本の実家、東京ですが住宅街なのでとても静かなエリアでこの本を開いていました。今回はNYのブルックリンのアパートで、窓外のストリートからは、車の音やサイレンや、アイスクリームトラックの音なんかがガチャガチャと響いている状況です。環境が違う。空気が、匂いが、光が、違う。日本ではすっと私の中に入ってきたものも、このNYの環境では以前ほど入ってきません。逆にいうと気づかないうちにNY的なものがどんどんと私の中に入ってきて蓄積しているのかもしれません。
ブッククラブでその変化の違いについて話したら、参加者の一人も、この本をもっと静かなところでゆっくりと時間をかけて読んだらきっと違う感じ方ができる気がするので、いつかまた違う時に違う場所で読んでみたいと言っていました。

文中の気になった文章

最後に、本の中で気になった印象的な文章がいくつかありましたので、ここでシェアさせていただきます。

目印を探して歩いていけるということは、僕も神様を知っているということだ。見たことはない。どこにあるのかも分からない。だけど、きっといるのだ、だから美しいものがわかるのだ。そう思えることがうれしい。うれしいという言葉じゃ足りない。ここにいることをゆるされたようなよろこび。
開けた場所に出た時のような、狭い袋小路に入り込んだような、相反する気持ち。そこにあるとわかっていれば、今はどんな場所にいてもかまわないではないか。よろこびへの予感。そこから叩き落される恐ろしい予感。近づいてきた予感はこれだったのかと思う。

「羊と鋼の森」宮下奈都

ここでいう「神様」って何だろうって、ふと手を止めてしまいました。はっきり分からないけど、これもとても日本的な宗教観で、スピリット的な、エネルギー的な、何か上の方にあって、導いてくれる存在みたいなものなのかな。これも日本的な文化を理解しないと、言葉通りに「神」と他国の人が読んだら全然違うものとして想像されてしまうなと。例えばキリスト教や、イスラム教の一神教の「神」のことはここでは言っていないと思うので。
何か自分を導いてくれるもの、これでいいんだって思わせてくれる何かに出会って、だから美しいものがわかる。それは私にとっては多分「絵」との出会いなんだと思う、美しいものを美しいと感じて、そして生きていける。

道は険しい。先が長くて、自分が頑張ればいいのかさえ見えない。最初は意志。最後も意志。間にあるのが頑張りだったり、努力だったり、頑張りでも努力でもない何かだったりするのか

「羊と鋼の森」宮下奈都

最初は意志、最後も意志、かぁ。
しびれる〜。

この本を読みながらふと、うちに来てくれている調律師さんにも、こんな音にしてほしいと言ったら実際やってくれるんだろうか?なんて思いました。私は少し音がこもったような古びた木みたいな柔らかい音が好きなんですけど、うちのアップライトちゃんは結構若いキンキンした音がする気がするんです。それぞれそのピアノが持った音というのがあると思うので、調整にも限度があるとは思うのですが。でも逆にこの本を読むまで、ピアノ個体の持つ音しかないと思っていたので、調律で違いを出せるということは知らなかったんです。だからうちのピアノも実際変わるのかなぁって興味が湧きました。
今となっては誰も弾いてあげないピアノ、可哀想だなぁ。きっと鳴らしたいだろうなぁ、歌いたいだろうなぁ。帰ったら弾こう。
しかし調律師さんには、ずっとNYにいてピアノ弾かないくせに、帰国したと思ったらそんな生意気なこと言ったらすっごいウザがられそうですよね。笑 

次回のブッククラブは、山崎ナオコーラの「昼田とハッコウ」をやります!
また次回の内容もシェアしていきたいと思います。どんなお話で、どんな意見が出るのか楽しみ!

それでは、今回はここら辺で。
NYから愛を込めて。

みさと


前回の読書会に関してのnoteはこちら


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