見出し画像

アートとはなんなのか、無視し続けてきた私がそろそろ向き合おうと思う。

こんばんは、おはようございます、今日は。
NYのブルックリンに住むみさとです。

今月は金欠で最大限のピンチの上に、タックスデイを迎えようとしており、ハラハラが止まりません。タックス払えるかな。笑

ま、そんなことはどうでもよくて(深刻なんですけど、まぁどうにかなる)

題名にあるようなことを、最近モヤモヤ考えております。
絵を描いて、ラッキーなことに個展なんかもさせていただいた私なのに、正直分からないし、ずっと無視してきたことなんです。

アートってなんでしょう?
アーティストってなんでしょう?

私、まぁ絵を描きますし、それって自分が描きたいものを描きたいように描いているわけで、それを見た人も色々と心で受け取って感じてくれるわけであり、広義の意味では、「アーティスト」になるんでしょうけど。
元々私はデザイナーであった訳で、そして私の描くものってアートっていうよりもイラストな感じもあって。

ちなみに私の中で、
デザイナーは、商業ベースでデザインをする人。デザインには機能が伴う。
イラストレーターは、商業ベースで絵を描く人。

私もたまに依頼されてポートレートを作成したり、商業的な用途で使用される絵を描きますので、その際には私は間違いなくイラストレーターです。
ただそれ以外ではほとんど、自分の描きたいように描いているだけなので、やはりアーティストかな?と思うのです。

私のコンプレックス

とはいえ、私は決して、他のアーティストの方々の前で、「自分はアーティストです」なんて言えないです。
それは新人だからとか、駆け出しでまだまだで恥ずかしいとか、そう言う意味じゃなくて、常に自分ごと人生ごと何かを表現することに向き合ってきた「アーティスト」とは、私は全然毛色が違うと自覚しているからです。

高校の友人でアーティストの子がいるんですけど、彼女が描く理由と私が描く理由って全然違う。
時代によって彼女の作風は変わっていますけど、今は結構抽象画っぽいものを描いています。彼女曰く、上手く描こうとか狙って描くといいものができなくて、頭を空っぽにして手を動かしてる時に、自分が納得できるものができると言っていました。今は制作活動は少し休止中ですが、もっと若い頃、すごく苦しみながら悩みながら、でもずっと描いている姿を見ていて、絵を描くことと生きることは彼女の人生の中で切り離せないんだろうなぁと、傍で見ているだけの私はなんとなく思っていました。

今に名を残す偉大なアーティスト達の人生を見ると、自分を投げ打って、その人の魂で、もう命を削りながら製作に打ち込んできたアーティストは多いですよね。
自分の中に渦巻く思い、感情、エネルギー、それらを外の世界に、色々な形で放出していく。時として火山のように炸裂し、また、時間と共に形を変える影のように静かに。
そう言うものが彼らが作品として残してくれたものを媒体に、現代の私たちにも伝わってきます。
すごいなぁ。

一方、私が描く理由って、大抵は「美しいなぁ」「可愛いなぁ」「面白いなぁ」「好きだなぁ」とかそう言う、美に対する愛や喜びや憧れの感情があって、それを留めて、それからみんなと共有したいと言う、ものすごくシンプルな感情からなのです。だから、そこにメッセージ性とかはあまりない。

あと、私はやはりNYに来てから絵を描き始めた新人であり、そしてアートを学んだことが一度もありません。
だからアートの本質とかあるのだとしたら、全然わからないままやっている、自己流。
そこらへんを学校でみっちり基礎からやった人からしたら、それはすぐに見抜けるでしょう。

アートに正解はない、色々なアーティストがいていい、そうは思っています。
しかし、きちんと学び、長い時間アートと向き合い、そこに自分を全身ぶつけて向き合っている人がいる横に、私を無遠慮に並べて「自分もアーティストだ!」というようなことはできないし、したくないと思っているのが今の気持ち。恐れ多いというか、失礼というか。
それは今後もし、これからでも美大に行って学んだら払拭される思いなのでしょうか、それはわかりません。

私が描く理由

私が描く理由について先ほど少し触れました。
もうちょっとだけ考えてみます。
(かなり当たり前のことを言っていますから、飛ばしてもらって構いません)

例えば一輪の白いバラの花があって、私が見て、美しいなとか、上品だなとか、いい香りだなとか思って、それを一番簡単にダイレクトに伝えようと思ったら、写真撮って見せればいい訳ですよね。
写真によって、そのバラ自体は、画角の中の情報はある程度「正確に」伝わるかもしれない。でもその写真を見せただけでは、私が感じた感情は写真には載っていないので伝わらない。(写真家はそれを撮り方やタッチや色などで伝えるのでしょう)
しっとりした空気間の中で、少し暗がりにある白い花が神々しくて、香りも艶やかで、影の中でも光を放っているような、凛と立っている女性のような雰囲気があった、なんていう感情は私固有の思いであります。十人十色、それぞれが抱くそれぞれの思いです。何か悲しいことがあった後に見たら、もっと違った色で陰って見えて、もしかしたらバラが泣いていると思うこともあるかもしれない。

私というフィルターがかかって、白いバラの花と言うものを心で受け取って、感情ひっくるめて描きたい。そう思いながら描いた絵って、なぜかやっぱり私の思いみたいなものが載ったりするんですよね。まぁ成功することもあれば、失敗することもあるんですけど。それが技術や上手さということなんでしょうね。
どんなに自分の感情を込めたとしても、それを見た人がどう受け止めるかはまた千差万別なのですが、まぁそれは別の話。

私が美しいと思ったものを、その時の空気感や感情ごと残しておきたい、手に持てる形で。そして自分の中から生み出され、物となったそれは、他の人にも見せることができる。
ねぇ見て、これ美しいでしょう、面白いでしょう、私はこれを見てこう思ったんだ、と言う思いが詰まった形となって。そして共有して会話が生まれる。
自分が美しいと思ったものを相手に見せて、相手も美しいねぇと言ってくれたら嬉しいじゃないですか。笑 
幸せですよ。

本当にそれだけなんだよなぁ。

美しいものを美しいと思う

以前、NYに来て色々あって本当に落ち込んでしまって鬱一歩手前みたいな感じになったことがありました。まぁ鬱だったかは医者の診断は受けていないのでどうだかはわかりません。

その時本当に心がバラバラになった感じで、心はずーっと泣いていたのかも、いつ何時も、勝手に涙が出てきちゃって、料理していても、電車に乗っていても、仕事していても、悲しいと特別思っていない時でも勝手に涙がツーっと流れてきていた時がありました。慌てて涙を吹いて、トイレに駆け込んだりとかそんな生活をしていました。
アメリカで一人で生きていて病院にも行けない私ですから、本格的に鬱になって寝込んで動けなくなるとやばいと思って、無理をするのをやめようと仕事も辞めて、しばらくお休みしたんです。
寝てご飯食べて寝て、みたいなそんな生活だったかな。一人だったからあんまり客観的な視点が持てないんですけど、ずっと家にいてずっとベッドにいたかもしれない。

で、しばらくしてからちょこちょこ出かけるようになって、公園行ったり美術館行ったりしてました。
ちょうど春になった頃で、色々なものが芽吹いてきて、花も咲き始めて、灰色や茶色ばかりだった公園が徐々に色を取り戻していったんです。それで、あー美しいなって思ったんです。
で、美しいと思える心が消えていなくて、本当に本当に良かったなって思ったんです。
その頃から絵を描き始めました。

…美しいものに救われたってことなんでしょうか。そしてそれを私以外の人にも広げたいっていうところがあるのかしら。今気づきましたけど。笑

ともかく、それが原点です。

「なんかいい」のその先

最近、友人が仕事を早期引退して、メトロポリタン美術館(MET)のメンバーシップに入って、毎日METに行っているようです。
私も今はスケジュールがかなりフレキシブルなので、毎週のように彼とMETにご一緒させてもらってます。
たくさんのアートに触れられるっていうのは、NYの醍醐味ですよね。

今日もMETで落ち合って、日本語ガイドツアーに途中から参加させていただ来ました。
私印象派のモネとかセザンヌとか、点描のスーラとか好きなんですけど、ツアーの一番最後にセザンヌの絵をガイドさんが取り上げて説明してくださいました。

一見なんのことないリンゴとお花の植木鉢が机に置かれた静物画なんですけど、ガイドさんが「間違い探しをしてください」と言うんですね。

Still Life with Apples and a Pot of Primroses by Paul Cézanne

良く見たら、机の高さが真ん中でガタッとなっているし、机の見え方も右と左で違う(左は上から見たように描かれていて、右はもう少し横から見たように描かれている)。それから植木鉢も縁のところが左右が見え方が違う。そのほか色々あるんですけど、ガイドさんの説明によると、セザンヌは色々な方向から対象を観察して、この絵画という2Dの世界に3Dである物の本質を描こうとした、これは全くの新しい試みであり、のちにピカソなど多くのアーティストに影響を与えた。とのことでした。
そして色使いや、配置など、非常に緻密に計算されて描かれているそう。

美術館でたくさんの絵画の中で、サラーっと見て通り過ぎてしまっていて、それらには全く気づいていなかった!!

私セザンヌの絵が好きで、特に風景画とか好きなんです。
METにもう何回も行っていますが、行くたびに、いいなぁ、好きだなぁって思うんです。
でもその「なんか好き」の理由、どうしてその絵が私にそう思わせるのかについて、考えたこともなかった。

METにある大好きなセザンヌの作品 Mont Sainte-Victoire by Paul Cézanne

でも、ガイドさんの話を聞いて、「なんかいい」と我々が思うその先に、非常にたくさんの努力や技術が詰まっているのかなぁと思いました。

そこでふと思い出したのが、むかーし大学時代、ダブルスクールで映画の学校にも通っていた頃。(当時は映画の仕事がしたいと思っていたんです)
照明のことを学ぶ回があって、実際に映画の現場で活躍されている照明さんが学校に来て授業で話してくださったんです。(実はこの授業がきっかけに照明をやりたいと思ったんですが、詳しくはまた今度。)

その照明さんが、言った印象的な言葉。
「照明技師にとって、一番の褒め言葉は、『これノーライティングで撮ったんでしょ?』です。」と。
一瞬訳が分からなかったんですけど、こういうことでした。
出来上がった映画のシーンを見た人が、そのライティングがとても自然に見えたので、これは人工照明は一切使わず、自然の光の中だけで撮ったシーンだろうと思った、でも実は非常にうまく計算された人工照明を駆使して撮られたシーンだった、ということです。この場合、「ノーライティングで撮ったんでしょ?」という言葉は最大の褒め言葉となるわけです。
多くの場合、映画での照明は決して主役にはならず、しかしながら非常に重要な役割を果たします。空気感、雰囲気、感情、色々なものをとても雄弁に語ります。光が主張することをせず、ピタリとそのシーンに自然にはまっている、そして観客は気づかないうちに、雰囲気や空気感や、シーンに渦巻く色々な感情を、光によってきちんと感じ取っている。
それとちょっと同じかなぁと思ったんです。

「なんかいい」「なんか好き」「心地よい」
その先には、非常に緻密な計算と、技術と、作り手の努力がたくさん詰まっていて、しかし決して主張せず、作家の描きたいものをきちんと押し出すサポートとして機能している。

見る側も、そう言った裏側の工夫を学ぶと、絵画の鑑賞に深みが出てより面白いし、作る側はやはりそう言った技術を学ぶことは自分の作品をより良いものにするために非常に有効ですよね。

そう言った先人が築いた技術や、理論みたいなものは私は本当に無知で、今までは別に自分は自分のやりたいようにやるからと無視していました。
しかし学んで損することはなし、今回をきっかけに「アートとは」ということをもっと学んでいきたいと思います。
技術や理論にばかり囚われるときっと良くないですが、学んで利用できるものは利用していったら幅も広がりますもんね。

手始めに、本を読んだり、模写とかから始めていこうかしら?




もし私のイラストを覗いてやろう、と思った稀有な方、是非とも、こちらからアクセスできます。ありがとうございます🙏

インスタもやっています。
@uga_illustration


それでは、NYから愛を込めて。

美里


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?