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おまけの一日

2日間の有給はあっという間に過ぎたらしい。記憶が朧げなのだ。
雄二の実家に結婚の挨拶をしに行く予定で先月申請し、大嫌いな上司に頭を下げてとった有給だ。
「結婚の挨拶ねぇ、君が…ふーん」と言って有給届にハンコを押していた。あの時の顔と言ったら本当に嫌味な顔で頭にくる。
しかし雄二の実家には行かなかった。
今月の初め、雄二から両親に結婚を反対されたと言われ口論になりそのまま別れ話になりLINEもブロックされ独りきりで過ごした有給だ。
同僚の佳恵さんにしか話していなかったのに噂はすぐに広まった。会社で「松本さん、婚約破棄されたんだって」と噂になり肩身の狭い思いまでさせられた。
嫌いな上司は「結婚しないなら有給取り消す―?」なんてニヤニヤしながら聞いてきて本当にムカついたので「有給は取ります!」と言って何にもない有給がはじまった。

とはいったものの何もすることがない。傷心状態の私にできる事は朝からお酒に溺れるくらいだった。雄二の実家から送られてきた地酒を1升、数時間ほどで開けてしまった。もう何もかも忘れてしまいたくて雄二と飲むように買っていたワインを1ボトル、冷蔵庫にあったビールをすべて開け、もうフラフラだったが「もうこうなったら死ぬまで飲んでやる!」と糞不味い料理酒を一気飲みした所でボロボロと泣き出してしまった。なんでこんな事になったのだろう。
本当だったら今頃わたしは結婚の挨拶に行き想像しかした事の無かった雄二の優しいご両親に迎え入れられきっとお寿司なんてふるまわれながら「雄二をよろしくお願いいたします」なんて言われてるはずだった。それなのに、それなのに。
お酒でフラフラになると悲しい事ばかり考えてしまう。ああこれからわたしは独り身で会社では婚約破棄された行き遅れ女として影口を叩かれながら働くんだ…ボロボロと出る涙は止まらなかった。お酒で思考は回っていないはずなのに悲しい事はどんどん浮かんでくる。もうすべて寝て忘れよう。寝て起きて酔いが醒めていればすべて忘れてるんだ。そう思って不眠症だった雄二の置いていった睡眠薬を2シート一気に酒で流し込んでベッドに倒れこんだ。


目が覚めデジタルのカレンダー付きの時計を見ると絶句してしまった。2日目の有給は丸1日気絶をしたように寝ていたようでもう出社日だった。それもいつも乗らないといけない電車の発車時刻だった。
慌てて会社に電話をして遅刻の旨を庶務さんに伝えると大急ぎで身支度をして出社をした。雄二の事なんて忘れてしまってるくらい大慌てだった。

いつも満員の電車なのにその日は運よく座って出社が出来た。寝すぎで疲れていたわたしは少し安堵しながらスマホでニュースを眺める。
酒に溺れていた一昨日、俳優のサダケンが離婚したらしい。世間はこんなゴシップニュースがトップに来るんだな、嫌だなと思った。でも少し嬉しかった。サダケンはわたしは中高大とずっと好きだったトップスター俳優で舞台も見に行ったし出ている映画はすべて見ていた。部屋中にサダケンのポスターを貼っていたし、グッズや写真集を買う今でいう「推し活」の対象だった。サインをフリマアプリで買ったらニセモノだったなんて苦い思い出もある。でもあのサダケンがお高くとまった人気女優と結婚したと聞いた時はショックで2日間寝込んだ。奇しくも今回寝込んだのと同じ日数だ。

そんな事を思っていると会社の最寄り駅に着き急ぎ足で会社へ向かう。
またあの嫌な上司に嫌味を言われるんだろうなと思いながら出社すると「お疲れ、傷心で疲れてるんだろ。気にしないでいいよ。」と別の上司が言ってくれた。
そして「大和田さんなら盲腸で入院したからしばらく出社しないよ。」と嫌いな上司と会わなくていい報告までしてくれた。今日はいい知らせばかりだ。

わたしの仕事は電話受付で毎日営業契約の対応やクレームの対応に追われる仕事なのだが今日はクレームが1件も鳴らなかった。こんな事は入社してからはじめてだった。それどころか営業契約ではウチの会社の光学機器を契約していただいた。しかも工場で何台も導入するといった高額な契約だ。それはもう上司から褒められて気分良く退社した。インセンティブボーナスも出るらしくウキウキしながら。

「今日はこれだけついているのだからもしかしたら」
と思って職場近くの宝くじ売り場でスクラッチくじを1枚だけ買ってみた。その場で削ると1万円当たっていた。

ちょっと今日はつきすぎている。少し怖かったが雄二と別れたから神様が慰めていてくれるのだろう、そう思って1万円の使い道を少し考え、以前欲しくて高くて諦めた画集を買うことにし近場にあるデパートの画集のあった本屋へ向かう。

画集コーナーで目当てのモディリアーニの画集を手に取ろうとしたところ、同じくモディリアーニの画集を手に取ろうとした人と手が触れ合う。
とっさに「すいません!」と声を上げると帽子を目深にかぶりサングラスにマスクをした男性が「いいよ、いいよ」と言ってくれた。私にはわかった。サダケンだ。
「君、この画集買うの?」
「は・・・はい!」
サダケンと気づいた私は少し上ずった声で返事をする。
「そうか、レディファーストだ。君が買うといい。僕はマティスの画集でも買うとするよ。」
といってマティスの画集を手に取り、立ち去ろうとするサダケンについ
「あ・・・あの!・・・サダケンさん・・・ですよね?」
と言ってしまった。
サダケンはわたしの眼を見て少しきょろきょろすると指を口に当てシーッとし小声で
「今マスコミから追われてるんだ、ニュース見たかい?あの件だよ。私がここにいたと言わないでくれ。」
と言った。私も小声で
「もちろんです、私サダケンさんの大ファンなんです。今日会えたことは奇跡としてわたしの心に留めておきます。」
と言った。きっとキラキラした乙女の目をしていたのだろう。
サダケンは少し考えて
「もしよかったらモディリアーニの絵のあるバーに行かないか?複製画だろうけどね。私は傷心なんだ。少し話に付き合ってくれ。」
あのサダケンさんがわたしに飲みの誘い?!さっき以上にキラキラした目でさらに上ずった声でわたしは大きく「はいっ!」と返事をしてしまい、サダケンはまたシーッと指を口に当てた。

タクシーの中ではお互い無言に近かった。あの憧れのサダケンがいま、私の隣りに座っている。それだけでドキドキが止まらない。これはお酒の力でも借りなければとバーに着くと強めのお酒を頼んだ。

お互い飲み始めるとお互い傷心なこと、サダケンは浮気をされたことやわたしは今回の傷心でもサダケンの結婚でも2日寝込んだと笑いながら話した。それでもドキドキは止まらなかった。
飲みはじめて数時間するとサダケンは手首にはめた高級そうな腕時計をチラ見すると「明日は仕事かい?」と聞いてきた。
こ、これはもしかすると・・・
わたしは嘘をついて「明日は休みです」と答えた。
「近くのホテルに身を隠してるんだ。良かったら来ないか?」
と夢のような誘いを受けた。

その日の夜は天国にいるようなドキドキの止まらないとても情熱的で幸せなセックスをした。あの何年間も推し活をした憧れの俳優と!もう雄二の事なんてすっかり忘れていたしどうでもよくなっていた。


翌朝早く、サダケンはわたしをタクシーで送ってくれた。
「昨日のことは秘密だよ。」なんて言いながらLINEまで交換してくれた。
あぁ、なんて夢のような1日だったのだろう。今日はほとんど寝ないで仕事に行くことになるけどそんな事なんてどうでもよかった。鼻歌交じりで玄関を開けてワンルーム部屋のベッドに向かい腰掛けようとすると、私が死んでいた。

少しパニックになりながら壁掛けのデジタル時計を見る。時間は昨日見た時刻から1秒も動いていなかった。
気づいてしまった。わたしはあの日、あの時間に死んだのだ。冷静に考えればあれだけのお酒と睡眠薬を飲めばおかしな話ではない。これは神様がくれた「おまけの一日」だったのだ。

「そっかぁ」
わたしは冷静になった。もう何かを達観したような無の感情だった。

「今までお疲れ様でした、わたし」
そう呟くとわたしはわたしの中に戻り静かにそのまま死んでいった。

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