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雨あがりの夕暮れどき        ~ゴッドファーザーからアンネ・フランクへ~

今週はケーブルテレビのムービープラスでアカデミー賞特集を観てしまった。メインはゴッドファーザーの三部作を三日連続で観てしまった。       シチリアのマフィアの世代を超えたお話。ファミリーの愛憎・裏切りの連鎖と解消のための凄まじい暴力・殺し合いの物語である。一部・二部はアル・パチーノの美青年ぶりとシチリアの牧歌的な美しい自然…と対照的に暴力・殺し合いの応酬。その愛憎の深さと重厚さに中ってしまった。                                       この暴力を伴う解決(しようとしているのか、ただの反応?やったらやり返すなのか!)の方法は、先の大戦での暴力の応酬からその手法としてあるのかと思ってしまう。これこそ暴力という手法を見聞きして学び、実行しているのか?いやいやこれは人類の一つの側面でもあり。その背景には誰かに対する怒りがあるのだろうが、この方法しかないのだろうか。と思ってしまう。その負の際たるところ。

主人公マイケルは父のことが嫌だった。自分は絶対に父の道へは進むまい、と考えていた。しかし父の動向が危うくなった時にその道へ入ってしまう。一旦入ると抜け出せない。そのような世界なのだ。三部目では過去を補うべく自分の道を進もうとする中で、不都合や裏切りが起きてくる。”憎んではいけない”とじっと耐えるが、敵対する輩はどうしても暴力を行使してくる。                この映画の中で印象的な言葉がある。”ファミリーの中で最も大切なのは子どもである”。言わんとすることは伝わってくる。子どもはわたしたちの未来であり、なにものにも換えがたい存在である。全編、ある種の緊張感に包まれているが、三部作のラストの10ぐらいは息を飲む。オペラの物語とマイケルを狙う刺客たちの動向が交錯する。濃厚で美しいイタリアオペラの重厚さと命の儚さと尊さが相まって行く。その歓喜と感激の中で命を狙われたマイケル。その犠牲となってしまう最愛のむすめ。マイケルはむすめを失くしたその苦渋を背負いながら余生を送ることとなる。なんという運命の操。

この濃厚で美しいイタリア文化に中ってしまった。           からだの調子を狂わせてしまった。

その中ってしまった気分を立て直すために、最新の映画を見に行った。「WHERE IS ANNE FRANK」                    「アンネの日記」はアンネが空想の友人キティーに向けて書いたものであった。そのキティーが「アンネの日記」そのものを持っている間は実在の人で在るという現象を基に、キティーが現代で「アンネの日記」を辿るアニメーション映画である。

アンネはナチスの人種差別主義に遭い、第二次世界大戦の終戦間近に収容所に送られて命を落とす。その列車に乗るか乗らないかで安否が別れる状況だったとのこと。このようなことは在ってはならない、本当に残念な出来事であった。その人種差別主義の一つの側面として現代における移民問題があり、この映画では移民問題につないでいる。現代のペーターはホームレスであり掏りをするが、移民たちの居場所を創り支援をしている。

キティーの「アンネの日記」を辿るお話を通して、アンネに起きた戦時中の出来事を解りやすく表現されている。そしてアンネに起きた悲劇は戦時中だからだけではなく、現在も形を変えて起きていること、誰の身にも起こりうることであることー現に世界各地で起きている、先日来のウクライナで起きていることーを伝えている。そして、お互いを尊重し合い、共に歩んでいくことを示唆してくれた。

「アンネの日記」のことを現代の若者のどれくらいが知っているだろうか?アムステルダムのアンネの隠家は居間も早朝から長蛇の列ができるほど関心があるようだ。そこへ行くことは難しいけれど、このアニメーションをひとりでも多くの子どもたちや若者に観てほしいと思った。

今日、この映画に出逢えたことに感謝。

https://happinet-phantom.com/anne/index.html





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