日本神話と比較神話学 第十五回 岩窟の中の楽園 天岩戸、エデンの園、ヘスペリデスの園
はじめに
日本神話において天の神々がいる天上世界は高天の原(たかまのはら)と呼ばれる。その高天の原には天安河(あめのやすかわ)と呼ばれる河が流れているとされている。そして、その天安河の川上には天岩戸(あまのいわと)とよばれる洞窟があり、そこには剣の神(剣の神格化)であるイツノオハバリという神がいるとされる。イツノオハバリは天安河を堰き止めて水位を上昇させて道を塞いでいるので、他の神々は近づけず、アメノカク(通説では「天の鹿児=鹿」の意)という神だけがこの神のもとにたどり着けるのだという。上記の復元神話は以上を参照している。
小論ではこの天岩戸にいるイツノオハバリという神格が、なぜ天上を流れる川を堰き止め道を塞いでいるのかを、比較神話学的な手法で検討を行う。
水を塞ぐ神話、天の川(銀河)の神話、祖霊の道の神話をそれぞれ検討し、イツノオハバリの神話の意味を明らかにすることを試みる。
水を塞ぐもの(インドラ、ヴリトラ、ヴァルナ)
水を塞ぐものの神話はヴェーダ時代のインド神話に見られる。
インド・バラモン教の神々への讃歌『リグ・ヴェーダ』では以下のように英雄神インドラによる悪蛇ヴリトラ退治が語られている。
ヴリトラが閉じ込めた水は英雄神インドラによって解放される。
ヴリトラは本来、日本神話のヤマタノオロチ(生贄を求める八頭八尾の大蛇)、アッカド(メソポタミア)神話のアプスー(地下の淡水の支配者)に相当する、大地を背負う世界蛇(魚)であったと思われる。(インドラは動揺する大地を固定したともされている)
ヴリトラによって閉じ込められた水がはインドラによって解放される。それと並行して悪魔ヴァラ(「洞窟」の意)によって拘束された牛(家畜)の解放の神話も語られる。
印欧語族の文化の研究者であるブルース・リンカーンはユーラシア大陸を南下する以前のインド・ヨーロッパ語系統の民族に「英雄神が三頭の蛇の悪魔によって洞窟に隠された家畜の牛を取り戻す」という原神話があったと考察・推定している。(インド神話のインドラによる三頭怪人トリシラス殺害、イラン神話の英雄スラエータオナによる三頭蛇の悪魔アジ・ダハーカ退治、ギリシア神話の英雄ヘラクレスによる三頭巨人からの牛盗みなどから復元)
インドラによって解放された水は世界に豊穣をもたらす。洞窟ヴァラにとらわれた牛もまた豊穣という性質を持つ。
一方、インドラと同じくインド神話の重要な神格ヴァルナ(ヴァルナ・インドラはともにインド・ヨーロッパ語族が分岐する前にさかのぼる神格)もまた、世界に水をもたらす神格である。ヴァルナは海中に住む夜の太陽の神で天則(天の規則)にのっとり、地上に水をもたらす。
ヴァルナは、ヴリトラ同様、水を閉じ込めるという性質を持っているため、ヴリトラと同一視するものもある。ただし、ヴァルナには地下の水というよりも天上の水を支配するという性格が強い。ヴリトラの冊封(支配領域)は、ヴリトラが地上の河・家畜を閉じ込めた山・洞窟に対応する、天上の岩窟なのではないだろうか。
祖霊の道(プーシャン、パン、牽牛)
世界的には天の川銀河は道であると考えられることも多い。「銀河は多くの地方で天上を流れる川とされるが、古代ギリシアでは、神々がオリュンポスの宮殿に集まるときに通る銀色の道であるともいわれるなど、天上界の主要な道だと考えられた。アメリカ=インディアンは銀河を「魂の道」と呼び、死者の魂が天国へと辿る道だとされる。天の川のあたりで蒼白く光っている星は、旅する彼らが燃している焚き火であるという。」(『世界神話事典』より太字は引用者。)
日本神話の天の川(天安河)には道(死者・神々の道)と関わる伝承はない。ただ、天の川(銀河)は中国より伝承した東アジアに広まる七夕伝説(天上の牛飼いの男・牽牛と天帝の娘の機織りの女・織女が恋に落ちるが、天の川によって引き離され、年に一度七月七日だけカササギの橋を渡って逢瀬ができるという伝説)と深くかかわる。
日本の民俗学によると七月の七夕(とお盆)と一月の正月(と小正月)は対応している。七夕には笹を、正月には門松を立て、祖霊(死者)を迎え、盆には送り火を炊き、小正月にはどんど焼きを行い、祖霊を送り返す。(正月七日までは神の正月・十五日の小正月までは仏〔祖霊〕の正月と称される)「盆と正月」といわれるように、七夕と正月七日は祖霊とかかわりが深い。
お盆では、この世の家族のもとに帰ってくる祖霊の乗り物とするために、ナスなどの野菜で馬をつくる風習がある。祖霊が動物に乗ってやってくるというのは、見えない祖霊が動物の姿で帰ってくるという信仰(アニミズム)の変形ではないかと思われる。
天の川との関連付けは見られない場合でも、動物と祖霊あるいは祖霊の道を関連させる神話は世界的にみられる。
インド神話で家畜の守護者・道祖神・死者の導き手とされるプーシャンはギリシア神話の牧羊神パーンと起源を同じくする、分岐以前の原インド・ヨーロッパ語族にさかのぼる神格である。この道祖神プーシャンは死者の霊を天の祖霊のもとへと導く。
死者を天上の祖霊の世界へと導く道が天の川銀河とされているかどうかは明白ではない。しかし、小論では河川の水を閉じ込めたヴリトラは一方では家畜(動物)を閉じ込めたである洞窟ヴァラと等しいとの考察を行っている。祖霊は動物の姿をとってこの世の家族のもとに現れ、また魂の道を通って祖霊の世界に帰っていく。だとすれば、あるいは天の川の川上の、天上の岩窟の中こそが祖霊の世界であるのかもしれない。(七夕伝説の天上の牛飼い・牽牛も、本来はプーシャン同様、天の川を通る家畜の守護者・死者の導き手としての役割を持っていたのだろう)
回転する炎の剣(天岩戸、エデンの園、ジャムシードの洞窟)
祖霊の世界は楽園でもある。「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、」(イザヤ書11章)祖霊の世界では人間と動物が共存する。
イラン神話では洞窟ヴァラとは、ジャムシード(イマ王)が冬の時代に備えてつくった、優れた人間や動物・植物の種を時の終わりまで保護する楽園である。
楽園が祖霊の世界であるとすれば、それが楽園(死や苦痛のない世界)であるのは当然であろう。楽園が祖霊の世界であるからこそ、ユダヤ神話に現れるアダムとイブのエデンの園や、ギリシア神話に現れる女神ヘーラーの支配するヘスペリデスの園、中国神話の西王母の蟠桃園には不死をもたらす果実の木が生え、生きている人間からは閉ざされている。同時にそこはアイルランドのケルト神話に現れる常若の妖精の国ティル・ナ・ノーグのようにこの世を去った神々が隠遁する場所でもあるだろう。(参照、岩崎せんりゅう『星座と干支』[星天講])
そうであるからこそ、楽園は生きている人間たちや神々に対して閉ざされている。ゆえにギリシア神話ではヘスペリデスの園には黄金のリンゴを守る百頭の竜ラドンがおかれ、そしてユダヤ神話では神がエデンの東に怪物ケルビムと回転する炎の剣を置いているのだろう。
天安河の川上の水を逆さに堰き止め道を塞ぎ、天岩戸にいる剣の神イツノオハバリとはユダヤ神話に現れる回転する炎の剣に等しい神格ではないだろうか。(「回転する」炎の剣とはイツノオハバリが「逆さ」になることに対応している。イツノオハバリは神々の父イザナギが神々の母イザナミの死の原因となった火の神カグツチの首をはねたときに用いた剣の神格化である。)
イツノオハバリは、高天原(天上世界)の神々より依頼された、地上世界の神々と交渉する使者の役目を息子であるタケミカヅチに任せたが、イツノオハバリは天岩戸を閉ざす神格であったがゆえに、天岩戸を離れられなかったのだろう。
おわりに
弟スサノオが高天原でおこなった暴虐に耐えかねて、高天原の支配者である姉・天照大神は天岩戸という洞窟に隠れてしまう。太陽の神格でもある天照大神が隠れたことにより天上も地上も「常夜往く」とされる暗闇に閉ざされ「萬の災い」が生じ、世界は終末的事態となる。そこで神々は天安河に集まり、天岩戸から天照大神を世界に呼び戻す方策を相談する・・・・・・。
日本神話の中でも有名な岩戸開きの段である。しかし、天照大神が隠れた岩戸がいかなる場所であったのかは語れていない。(同じ類型の神話を召日神話と呼ぶが、他の召日神話でも同様である)通説でも洞窟の向こうの世界ということは特に考えられていないようである。
小論ではそこを祖霊の道を渡りきった先にある、楽園(祖霊の世界)であると考えた。イツノオハバリはたとえ、神々の中の王であろうとも、楽園への通行を阻むためにおかれた神格であると考えている。
最後に、天照大神が天岩戸を開いたとき、その腕をひいて引き出したタヂカラオという神格がいる。その名は文字通り「腕の力」を意味するのだろう。インド神話ではサヴィトリという神がいる。その名前は「鼓舞するもの」という意味で、その両腕で万物を刺激し、鼓舞するものであるという。「黄金の両腕」をもつという。ともに腕の力をもって、世界(万物)を活性化する神格である。あるいは彼らは同一の神格であるのかもしれない。
参考文献
工事中。