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Stress-Free Homeschooling 6

Chapter 7 日常生活での学び



Devorahは私の16歳になるホームスクーリングで育てた娘。バレエスタジオの待合室に座ってレッスンが始まるのを待っていた。レッスンが始まるまでまだ数分あった。生徒たちの何人かはおしゃべりをしていたり、ストレッチをしたりしていたが、一人宿題をして待っている娘がいた。「社会」と書かれた教科書の表紙が目に入った。
「その本見せてもらっても良いかな。」とDevorahはその娘に聞くと、見せてくれた。
「社会!」と一人で心の中で叫んだ。「聞いたことはあったけれど、どんな教科か知りたかったんだ!」
一通り目を通すと教科書を持ち主に返した。「あれが社会科か!『晩御飯』ってことね。」
この一件のことをDevorahから聞いたのはその数年後だった。彼女は一生懸命説明していたが、それは私が既に認識していたこと。つまり、私たちが知っていることの大半は正式な教科として学んだり教科書で勉強するのではなく日々の生活の中で自然と身に付いているということ。
Devorahが教科書に目を通した時、その内容のほとんどが我が家で夕食時に食卓を囲んで長年話題にしていた事柄だと気づいたと言う。政治、国内外のニュースや人工妊娠中絶についてなど、様々な事が話題になった。これが日常生活での学びだ。親が居ても居なくても子どもたちは日々の生活から学ぶのだ。どのような種類の学びがあるかを意図的に把握するためのいくつかの方法を次に示そう。

ライフスタイルの優先順位



子どもたちは親がどのように時間、エネルギーとお金を使うかを見ながら吸収して学ぶ。あることを教えても常日頃目にしていることの方が子どもたちは影響される。

あなたの家で聖書の位置づけは?

子どもたちに聖書の読み聞かせをしているか。親が読んでいる姿を見ているか。神の言葉から自然と物事を判断しているか。娯楽ではどんなものを観ているか。どのようなことが笑いを誘うのか。神の言葉に基づいて人間関係を対処しているか。
聖書(旧約・新約共に)を最優先事項にすることが大切だ。有名な一節がある。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(テモテへの手紙ニ 第3章16節)これは当時の信者の手元にあった旧約聖書の言葉だ。新・旧合わせた聖書は神の真実の全てが満載だ。創造主、神の不動の愛と忠実性、提供者、全能ですべてを司る。中には実用的な指示も書かれている。例えば、盲人の前には障害物を置かない(レビ記第19章14節)、平らな屋根には欄干を設けよ(申命記第22章8節)、それはそれはとても現実的で実用的な本なのだ。

ある年、Donald博士とMary Bakerの共著『Bible Guide for All Ages(全年齢対象の聖書ガイド)』を教材として使い、ある子が一節を音読した後、質問をするという形式(つまり子どもたちはちゃんと聴いていないといけない)の時間をとった。他の年は週に一回(我が家の場合それは土曜日の朝)リビングルームに集まり、夫が一週間の聖書読みでそれぞれが皆にシェアしたい内容はないか尋ね、それを発表し合う時間を設けた。一時期私は子どもたちに日誌を渡し、毎日聖書を読んでいて自分にとって意味があると思える一節を最低でも一つ書き写させることをしていた。私と夫しかシェアしなかった時もあったが、子どもたちが成長するにつれ、次第に発表する子も増えてきた。

神と共に生きているか?

この一年、ホームスクーリングの支援団体から講演の依頼があり、成人した息子のDanielにも話してもらえないかとの問い合わせがあった。彼に割り当てられたテーマは、彼が信仰に対して積極的になったきっかけを共有することだった(Danielは揺るぎない信仰心を持ち、妊娠中絶反対運動、貧しい人々への奉仕、人身売買との戦い、子弟育成、伝道活動に積極的に取り組んでいた)。

Danielは自分の両親から神について学んだだけでなく、神を知ることを学んだと語った。ホームスクーリングに取り組む保護者に子どもたちに神について話すだけではなく、親自身も神と共に歩み、決断に際しては神に尋ね、与えられることに信頼を置き、あらゆる事柄について祈り、神の言葉を生き抜くことに努めることを強く勧めた。

神の言葉を生き抜く上で大切な一面は間違った時には正直に謝るということだ。失敗した時には「ごめんなさい」と謝る。みんな時に失敗するもの。子どもたちは親が間違ったことをした時、それを打ち明け、悔いる慎ましい姿を目にしたなら、これは重要な特質を示したことになる ― 謙虚さだ。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。」(ペテロの手紙一第5章5節)

私は大学で聖書を専攻し始めた頃はまだ新米信者だった。キリスト教徒の家庭で育った人々と出会ったが、彼らは一時期信仰から離れた生活をしていた時があったそうだ。自分が子育てする時のことを考え、彼らがなぜ信仰から離れたのか、その体験から学びたかったので聞いてみた。殆どの人は信仰から離れたのは両親の偽善に嫌気がさしたからだった。教会では信仰心に満ち満ちているのに家では全くそうではなく、そして何よりも重要な点は間違いを認めず、「ごめんなさい」と言わなかったことだった。

判断することを学ぶ



一日の中で声を出して子どもたちと触れ合おう。何か質問してみる。例えば子どもたちとお店に居たとしよう。親の言うことを聞かない子どもを見かけた場合、その店から出てから子どもたちにあの子どもの態度をどう思ったか、親はどう対応するべきだったか等を聞いてみる。

車を運転中に危険な動きをする車に出くわす。落ち着いてから何故危険だったか聞いてみる。

教会で語られた説教について話し合う(批判的にはならず、使徒言行録第17章10~11節のベレヤ人たちのように説教を素直に心から受け入れながら)。ある日、教会の帰り道に当時10代だった最年長のSarahがある婦人が教会の正面から信徒たちに言ったことについて尋ねてきた。「あれは正しくなかった。あの人が言ったことは。そうでしょ?」私たち親は聖書の教義に基づくものではないと同意し、彼女がそうきっぱりと言えるほど聖書をよく知っていたのだと心の中で喜んだものだ。結局のところ、人は正面から物事を言うと重く受け止めがちだ。

私は息子たちに最低限の教育しか施していないにもかかわらずどのようにして奨学金をもらえるようになったかを第1章に書いたのを覚えているだろうか。私たち親はただ読んで考えるように教えただけ!上記の例は私たちがどのように子どもたちと対応しているか、そして各自がどう判断し考えるかが分かるだろう。

観た映画の評価(この映画での良い場面と悪い場面は?)や、コマーシャルや広告を見て(商品をいかに買わせようとしているか、真実を伝えているか?)の判断をさせる。

親として次のものをどの程度活用しているかによって判断されている:

読むこと。あなたが読んでいるところを子どもたちは見ているか?何を読んでいるところを見られているか。読むことが家庭内で良いこととされているなら読み方を教わりたいと思うだろう。一旦読めるようになったら読むことが良いことだと分かり、進んで読むようになるだろう。

デバイスの使用。いつもスマホをいじっている姿を見せていないか。子どもも同じようにしたがるものだ。

音楽。どのような音楽を聴いているか。楽器を弾けるか。子どもたちは真似をするものだ。

その他のアクティビティ。各家庭にはそれぞれに価値をおくものがある。スポーツをよくしたり屋外で活動することが多い家族があったり、また美術か、音楽か、造形を好む家族があったりするだろう。なんでも修理するお父さんならものを直すところを見せて教えることができる。できるだけいろんな活動に子どもたちを同行・同席させて学ぶ機会を増やそう。

多くのものは教えられるよりも見て真似ることの方が多いので自分の生活を見直してみる良い機会となる。神に祈り、何を変える必要があるか尋ねてみると良いかもしれない。夫と妻は同じ方向を向いていることが好ましい。もし何か変えていかなければならないことがあったとして、夫がそれに賛同しない場合、妻側の取り組みとしては祈り、そして自分のできるところから変えていく努力をしてみる。
決して文句は言わないこと。それは神様が望むことではないから。夫を否定する言葉を並べるよりも神様に良い面を感謝する。大抵の場合、夫は家族の生活維持やその他の重要な事柄に時間を取られている一方、妻は子どものことで頭がいっぱい(これもとても重要なこと)だ。もし夫があなたと同じ方向を向いていなかったとしても神様を信用して祈り続けよう。もう一度言うが、いつも夫に感謝して尊敬すること。

他を愛しむこと



もてなしの心

神様は命じている。聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい(ローマ12章13節)。人を家に招くのに煌びやかである必要はない。
何年もまえになるが、毎朝決まった時間に我が家の前を通る老夫婦がいることに子どもたちが気づいた。子どもたちはこぞって手を振り、気づけばそれは我が家の朝のルーティンになっていた。一人の子が窓辺に行き、「来たよ!」と叫ぶと子どもたち全員が窓辺に駆け寄り手を振った。窓の外の二人は笑顔で手を振り返した。ある日から数週間その老夫婦の姿はなかった。その次に彼らを見かけて手を振った時、我が家に向かって歩いてドアノブに何かを掛けた。子どもたちは大急ぎで玄関に走り降りるとそこにあったのはここ数週間訪問していたお二人の故郷のお土産だった。

お返しに私たちは甘いものを作って差し上げた。次の日、窓から老夫婦を見かけた時、大急ぎで外に飛び出してそれを渡した。家に招待してくれ、私たちは行かせて頂いた。私たちはお二人を夕食に招待したが、奥さんがその時間帯は英語のレッスンがあるということで、叶わなかった。

とても心温まる出来事で、両親にも話したのだった。 父親は座り心地の悪いソファや家具しかない私たちのボロ家に人を招くものじゃないと私を戒めた。当時は遠方に引っ越したばかりでそう言われても仕方がないような状況で、家具はお下がりのお下がりだった。
私は父に、人は素敵な家具に座るために家に来るのではなく、招待した方々への私たちの思いを受け取ってほしくてお招きするのだと言った。詩篇には「神はよるべなきものを家族の中にをらしめ」(旧約聖書68:6)とある。

我が家に招くべき人はピカピカの新居で過ごす必要があるからではない。家族という温かい場所が、愛が必要だからだ。

人生を学ぶ機会は家に様々な背景、人生経験、教会、仕事、視点、宗教を持つ人を招いたときだ。(感想や話し合いは必要なら後で。年長の子どもたちには考えを促すために質問してみる。)他の人と意見の相違があっても相手に対する愛や尊敬を示す姿を見せる良い機会だ。食事が始まっても大人と子どもの席は分けないこと。後で遊びに行きたいと席を立つのはよしとする。今までにも同じ年頃の子どもがいない時には席を立たずに大人の話を聞いて楽しんでいた子も何人かいた。
客人がどこから来たか調べる(後でも良いし、失礼でなければその場で)。その国について尋ねてみる(たいていの人は自分自身のこと、出身地のこと、自分の人生について話すのが好きだ)。

神の心は世界を思う

聖書を通して私たちは正義と貧しい人々に対する神の心を知る。あなたの周りで、そしてそれ以外のところで起こっていること(妊娠中絶、安楽死、選挙など)に気づき、祈りを捧げよう。そのことについて話し合い、祈ろう。聖書にはなんて書いてあるのだろう。ここで子どもたちは聖書的世界観を学べる。Devorahはここから社会の勉強をスタートさせた。何ができるのか?できることはある。そして子どもたちが成長すれば揃って然るべき人物に手紙を送ったり、ある案件について地域の政治家を訪問して話しをしたり、THE VOICE OF THE MARTYRS(米非営利活動法人「殉教者の声」)などの広報誌を読み、世界中のクリスチャンに何がおきているのかを知り、彼らのために祈ることもできる。親子で市内の伝道活動をサンドイッチ作りで協力することもできる。他の家族と交流して活動するのは楽しいものだ。

調べる!



ほとんどの家庭はインターネットに接続している。そのような環境にない場合は図書館を活用する。歴史小説は歴史を学ぶには比較的苦痛のない方法だ。子どもたちに読み聞かせをしていると、ある時代のある場所での話になる。調べてみる。

例えば、ホロコーストについてかかれた児童書が沢山ある。私と夫はユダヤ教徒なので、この出来事には特に興味があるが、これはあらゆる人がもっと興味を寄せるべき事柄だと思う。なぜならそれは一人の人間が世界を牛耳りたいために起こした単なる歴史上の出来事ではなく、その時だけの出来事ではないからだ。そのような本を読むことで実のある自然な話し合いができる。コーリー・テン・ブーム著『わたしの隠れ場』(いのちのことば社)では何人かのユダヤ教徒をナチスから匿っていたオランダ人キリスト教徒はナチスに嘘をついて良しとして「いいえ、ここにはユダヤ人はいません。」と言った。しかし一方でいかなる場合も嘘をついてはいけないとの考えがあった。そこで私たちは嘘をつくことが許されるのかどうかという問題について議論した。聖書ではラハブが敵軍の斥候を匿っていたのに「ここにはいない」と嘘をつき彼らを逃したのにそのことで恩恵を受けたとある。(ヨシュア記2)

事実に基づいた映画。そのような映画を観るとき「この映画はどの程度真実に沿っているのか?本当は何が起こったのか?」と自問自答する。『アポロ13』、『英国王のスピーチ』、『炎のランナー』、『42~世界を変えた男』、これらの映画はどれも実在の人物の実際の出来事に基づいて制作されている。映画を観た後、本当はどうだったか調べるか、本を読んでみる。

図書館で『英国王のスピーチ』の本当の話が書かれた本をみつけ、それを子どもたちに読んで聞かせた。家族でその映画は事前に観ていたが、本を読んだ後、もう一度みんなで鑑賞したところ、内容の違いに気づいた。(注意!この映画には好ましくない言葉使いが散見され、その部分は早送りする。子どもたちに見せる前に事前に観ておくことはとても、とっても重要だ。これは私たち夫婦のポリシーで、それをしなかった時が数回あったが、とても後悔したものだ。)

調べることは学習の基礎を構築する。

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インターネット利用について一言

インターネットは情報の宝庫ではあるが悪への扉が沢山ある。ネット上にはあなたやあなたの子どもを狙っている400万以上のアダルトサイトがある。ホームスクーリングをしていれば影響は受けないと思うのは大間違い。決してそんなことはない。
利用する上での基本的なヒント:パソコンはドアを閉められる場所ではなく家族がいる所に置く。子どもは親の見守りなしでインターネットを利用させない。夫は子どもに応じて情報にアクセスできるようにパスワードを設定した。家にあるパソコンはどれもフィルターをかけておく。図書館や友人の家など無制限にアクセス可能な家庭以外の場所にも気を付けておく。

子どもの教育で大切なことはフィクションの部分と事実の部分の整理の仕方を学ばせる手伝いをすること。ネット上で説得力のある記事に出合うかもしれないが、たいていは内容的には良く言ってくだらないもの、悪く言えば危険なプロパガンダであったりするものだ。違いを見極める力をつけるのも学習には必要だ。子どもたちには記事の一次資料を探し、酷い偏向を見極め、引用元の文書を探す方法を知ることを学ぶべきだ。

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何か新しいことを学べば、例えば今まで作ったことがない料理を作る時、直したことがないものを修理する時、IKEAの家具のように組み立てたことのないものを組み立てる時、楽しみとして何かを学ぶ時(私は今ヘブライ語を学んでいる)、それは学び方の手本となり子どもたちもその姿を見て学び方を学ぶ。
本をあちこちに放置しておく。子どもは読めるようになればたいていその辺に転がっている本を手にする。面白い挿絵が載っていれば読めるようになる前から手にすることもある。例えば偉人伝や科学に関するなものなど、どんなものでも子どものためになる絵本など、読みやすいものを置いておく。

ライフスキル(生き抜く力)


子どもの成長に合わせてできるだけ一緒に連れて出かけ、巻き込んでしまおう。料理、掃除、洗濯、家の中の物の修理、庭の手入れ、お父さんお母さんの手伝いなどできる範囲で。様々なお手伝いは算数(量ったり数えたり)や問題を解く時のように頭をよく使う。
注意:「子どものできる範囲で巻き込む」と書いたが、親のあなたも対応できる範囲ですること。子どもはいつもあなたのそばに居なければならないということではない。季節によっては買い出し、料理、洗濯物たたみを一人でしたい場合もあるだろう。それもOK。子どもは常に親の横にピッタリくっついていなくても学ぶ機会はたっぷりあるものだ。安心しよう。あなたは子どもたちを学校に通わせるのではなく、自宅で教育しているので、子どもたちはあなたと一緒にいる時間は長く、人生を歩む中であなたから学ぶだろう。

先ほども言ったように、生き抜く力を育む算数は小さい頃から学べるものだ。「本を3冊読んであげるね。いち、にい、さん」、「おもちゃを7つ拾いましょう。いち、にい…なな」、お丸にじっと座りながら20まで数え、その後はフランス語などその他の言語で数えてみる。

言語もライフスキルだ。それが布教のためであれ、就職のためであれ、もしくはただ単に通りすがりの人を祝福するためであれ、母語以外の言語でのコミュニケーションは多くの扉を開く。もし第二言語を持っているなら子どもが小さい時(できれば誕生した時)からその言語で話しかける。そうすれば子どもは難なくその言語を身に付けられる。
私はフランス語が堪能だが母語ではないため私の赤ちゃんに話しかけるのは不自然に感じた。しかしながら、フランス語の単語は使っていた。私はノートをフランス語の"cahier"と言っていたら子どもたちはそういうものだと思っていた。後にそれがフランス語でノートだと知った。今思えばこのような困惑がおきないようにフランス語と英語の単語を入れ替えながら使えばよかった。
何か良からぬことが子どもに起こった時、私は同情して”Le Pauvre!”または”La Pauvre!”(可哀想に!)と言っていたので、これは誰かに同情するときにかける言葉だと分かった。そこには教えるという形式ばったことはなく、教える努力も不必要だった。これこそ自然に学ぶということだ。
母親によっては特定な時にだけフランス語、スペイン語やその他の言語で喋ると決めている人もいる。例えば昼食時に。
カレンダーの各日に異なる単語や表現を書いて、一日を通してそれを意図的に使用することもできる。週に5日だけ取り組んだとしても年間で換算すれば新しい単語を約250語学んだことになる。

好きなようにさせる

子どもは遊びや探検する中でたくさん学ぶ。まだ小さい時は何処にいて何をしてるか決して目を離さないこと。成長するに連れて好きにさせる時間と場所を与えよう。子どもは父親や母親の隣で学ぶと書いたが、常に傍に居なければならない訳ではない。空き箱、トイレットペーパーの芯、レゴ(窒息事故防止のため最後の子が上手く扱えるようになるまでは我が家に導入しなかった)、デュプロ(レゴよりも大きく、安全に遊べる組み立てブロック)、プレイモービル(これも末っ子が大きくなるまでは我が家には導入しなかった)などの多くの他のおもちゃと同様に、変身ごっこに使用できる古着や衣装の入った箱があると、想像力が刺激される。
片付けをきちっと責任をもってできるようになればいろいろな工作材料も使用できるようにする。
安全が確保されている環境の下で外に出せば同じように想像力を掻き立たせるだろう。
子どもたちは構わず放っておくことで様々なことを学んでいく。多くの場合、彼らはあなたが読んだもの、または彼らが読んだり見たりしたものを再現してみせる。子どもは中でも外でも本当にたくさんのことを学ぶ。

予定は未定

家族やあなたの周りで何かある時がある(あなたが住む町や国での特別なイベント事など)。そしてそれは教育的に良いとみなした場合、自然な日々の生活の中の学びとしてその日(または適当と思われる期間)の予定を変えてしまおう。
例えばカナダ連邦選挙があった翌朝は読む予定にしていた聖書の音読の箇所を変更し、私たちは神が指導者を立て、そして引きずり下ろしたという一節を読んだ。また、私たちに指導者のために祈りを捧げることを求める箇所も読んだ。それから私たちは、今度は与党ではなく野党になる首相のために祈った。 職を失ったその党員たちのためにも祈り、新しい首相にも祈りを捧げた。
私たちは残りの午前中の授業時間を職を離れる首相宛に彼がしてくれたことに対してお礼の手紙を書いた。また、息子の一人が一緒に仕事をしていたことから何人かの子はその関わりのあった職を離れる役人にも手紙を書いた。
これらの手紙を書くにあたって、正式な手紙の形式と首相並びに役人の敬称方法を調べなければならなかった。
これはまさに全ての人が学ばなければならない学習経験だ。そして、もし私がいつもの授業の時間割に固執していたなら決して学ぶことはなかったことだ。

余暇での学び



ゲーム、スポーツ、音楽、散歩、ハイキングをしたり、浜辺に行ったり、公園に行ったりと、どの家庭にもそれぞれがリラックスしたり楽しんだりする時間にすることがあるものだ。どのようにそれを行うかが子どもたちの教育にとって重要な要素となる。忍耐強く、優しく、スポーツマンシップをもって一生懸命に取り組んでいるか。子どもたちにそうするように訓練させているか。私たち親もイライラしてしまった時のことを子どもに謝っているか。彼らは、現在の人間関係だけでなく、将来の人間関係にもこれらすべての特性を必要とする。他の人と働くことになった時に生かされる。

友だちから学ぶ



友人の力と影響力は軽視できない。あなたの子は良きにつけ悪きに付け友だちから学ぶ。親は子が小さい時には友だち選びについて絶大なる力を持っている。
ある時、私たち家族は新しい町でホームスクーリング中の子どもたちでいっぱいの教会に行った。年長の二人の娘たちが新しい友だちを作りたがったので、同じ年頃の女の子を家に遊びに誘った。
不意に目の当たりにするその子の言動は親をがっかりさせ、目を丸くさせるものだった。その子とはそれっきりにした。人や家族を家に招いたりする計画を立てる時が多いこともあり、ホームスクーリングをしていると子どもが誰と時を過ごすかについて親の影響力は大きい。
別の女の子を招き、同じような言動を目の当たりにした(どちらも10歳位)。時間はかかったけれど、最終的にはそのような否定的な態度を取らない他の女の子たちと友情を育むことができるようになった。
時には特定の友だちから引き離さざるを得なかった時もあった。なぜなら子どもの一人がその子の影響で良くない言動や態度を真似するようになったから。我が子たちが完璧な天使というわけではもちろんない。子ども自身の悪態に取り組むだけで十分。その上さらに外部からの悪影響に対処する余裕など私にはない。
子どもたちは成長するに連れて親は良い友だちとはどういうものかを理解させ、ためにならない友情を妨げながら良い友だちを作りやすくする方法を教えられる。害になる友だちなら友だちはいない方が良い。
我が家でも何人かの子どもたちは訳あってほとんど友だちと遊ばなかった時期があった。その一人の息子をみていて可哀想に思ったこともあったが、結果的には良い展開に繋がった。彼は同僚の影響が良いものではなく、間違いなく愚かさが増す年齢にあった。でもそれは私たちが意図したものではない。そんな時期を終えた息子を見て気づいたことは、友だちとしょっちゅう一緒にいたならば彼の個性と成熟度合いは間違いなく今ほど高くはならなかっただろう。
その間私は息子に良き信心深い友だちが現れるよう神に祈っていた。最終的に彼はとても多くの良き友ができた。もちろん彼の場合、兄弟がいたので個人的なやり取りをしたり遊んだりする相手は常にいたのだが。
特に子どもの外泊について一言。もし親が子どもの外泊を許可しなければ心理学者、精神科医、カウンセラーの対応件数は劇的に減ると言われている。友だちの家での外泊は性的虐待の温床になっている。外泊先の家庭は信頼できたとて90%の性的虐待は親しく信頼のおける人たちの家で起こる。その時他に誰が居るのか分からないし、その誰かが子どもに性的虐待をするかも知れない。そう、残念ながら守られているはずのホームスクーリングで育っている子どもたちも被害者だ。
パニックを起こす必要はない。賢くなろう。体の大切な部分は(もちろん結婚するまで)誰にも触らせない、触ろうとさせないということを子どもに教えること。もし誰かがそのようなことをしたなら、また、しようとしたなら直ちに言うようにと。そして、そのことで決して怒ることはしないと念を押しておく。それと同時に「お父さんやお母さんにはこのことは内緒だよ」とか「誰にもこのことは言っちゃダメだよ」という言葉の本当の意味を理解させ、直ちに親に報告するように教えることだ。
さらに付け加えるなら、「結婚するまでは」触らせないことについて。多くの子どもたちは自分の体は不十分とか罪深い等と言う思いを持って成長している(例えば慎み深さや適切に体を覆うことを教えている時)。このような間違った考えのままでいてほしくない。どちらかと言うと自分の体を守りつつ肯定的に受け止めてほしい。
賢くなろう。子どもたちに外泊はさせないように。

まとめ


聖書に次の言葉がある。「子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これ(神の命令)を語り聞かせなさい。」(旧約聖書申命記6:7)私の見解をお伝えしよう。親が情熱をもっているものに対しては努力せずとも自然と子どもに伝わっている(申命記が教えるように)。これは日常生活での学びだ。このことはある見事な裁縫の技術をもって仕事をしているママ友を例に挙げよう。彼女は手先が器用でなんでも作るのが大好きだ。彼女が家族のため、プレゼントにするため、売るためになんでも作ってしまうその姿を子どもたちは見て学び同じようにできていた。別のママ友は自然療法に精通していて、彼女の子どもたちもそれに関してとても詳しい。野球が大好きなパパの子たちはみんな野球に詳しく、彼の息子たちは野球に熱狂的だ。動物をこよなく愛する両親のもとで育った子は動物の知識が豊富だ。このように意図せずとも子どもに引き継いでいるものは(良いものも、残念ながらそうではないものも)沢山ある。
日々の生活の中での学習は知らず知らずのうちに起こっているものなので、優先事項を決めて大なり小なりの変更を加えれば子どもたちの日々の生活の中で起こる日常的な学びに積極的に取り組むことができる。私が今言った“日常的な”または“日々の生活の中での”学習と言ってきたことは、人生を通して学ぶ非公式な学習のことであり、決して軽んじてはならないものである。それはとても貴重な学習であり、子どもを教育するに当たって大変重要な部分である。
私からの励ましとおススメは神と神の言葉を自分自身の心と家庭の中心に据えること。そうすればこれらは最重要事項として教わるだけでなく理解につながることになるだろう。

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