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移住して田舎暮らし/夫の休日なし/友達なし/HSS型HSP/30代女の至高の「遊び」観

私、昨年末に関西から山陰に移住してきました。
夫(学生時代にこっちで過ごしている)の仕事の都合なので、私はまったく馴染みのない土地。しかも、まあまあ田舎。

だからなのか、夫の知人に会うと
「こっちに友達もいないんでしょ?こんな田舎、遊ぶところもないし、休みの日とか一人で(※夫は仕事上、年末年始しか休日がないため)暇で退屈なんじゃない?」
と心配されたりする。

…だがしかし。
当の本人(私)、ちっとも退屈していない。
どうやら「遊ぶ」の概念がちょっと違うらしいと気づきました。


「遊ぶ」とは?

私にとって、遊ぶ=魂をふるふるさせる行動/楽しい=魂がふるふるすることです。だから、

家でパソコン開いてブラインドタッチを極める時間
Instagramで美味しそうな写真を眺める時間
好きな施術を受けに行く時間
カフェでノートに心の中を書き下ろす時間
景色や美味しいものを味わう時間
ベッドに潜り込んでブログを書く時間
夫と晩酌したりただ隣でぼーっとする時間
本を読んだり勉強する時間

これらは全部、私にとって「遊び」で「楽しいこと」になります。

刺激を求めなくてもいい

もしかしたら外交型の人にとっては、刺激の大きさ=楽しみの大きさなのかもしれない。目新しいもの、カラフルなもの、賑やかなもの、大きいもの、とか。その刺激を求めたくなるのかもしれない。

でもね、楽しさは刺激だけじゃない。
心の奥がふるふるするような、小さな動きだって、楽しさにカウントしていい。

私が超ド級の内向型だからかもしれないけれど。
私は「初めて行ったスーパーの油コーナーが充実していることを発見した」とか「ちょっと良いバター買ったら美味だった」とかも、楽しさにカウントしています。
そうしたら、良さげなスーパーに行ってみることや、美味しそうなバターを買うことは「遊び」になる。

なにもテーマパークやショッピングモールに行くだけが、遊びじゃない。

一人でもいい

誰が「遊ぶ=誰かと一緒に」って決めたの?
子供のころ幼稚園や学校で、「みんなで仲良く外で元気に遊ぶことが良いこと」って植え付けられたからそう思い続けてるてるだけじゃないの??

生まれた時からコミュ障でしかもひとりっ子の、ひとり遊びエリートだったので、当時からあの「みんなで!」「外で元気に!」が嫌で嫌で。
みんなで外で遊ぶことが嫌、以上に、みんなで外で遊ぶことを楽しい思いましょう!っていう無言の圧が嫌だった。記憶ではナチュラルに反抗していた。


…いや、だから、一人でもいいんです。

ほとんどの飲食店(ホテルラウンジから立ち飲み居酒屋まで)、買い物(購入の検討が可能な価格帯)、美術館、映画館、カラオケ、他なにがあるだろう?国内でも海外でも、行きたい!と思ったら一人ででも行きます。

なかには「ここにはこの人と行きたい」って場所もあるし、一人行動は良いことだ、とか一人で行けるのすごいでしょ、とかそういう問題じゃない。

大切にしたいのは、一人かそうじゃないかじゃなくて、そこに行きたいかどうか。だと感じます。

と、いうわけで

私にとってカフェに一人で行って、ケーキとカフェオレ味わいながら、Kindleで読書したりノートタイムしたりブログ書いたりするのは至高の遊びのようでした。

良さげなカフェを探したり、万年筆とノートの紙の相性を検討したりするのに忙しくって、退屈してる暇なんてない。

生まれた時からコミュ障でしかもひとりっ子の、ひとり遊びエリートの感覚なので、随分偏っているとは思いますが。こんなことで楽しく遊んで幸せ感じてたって、全然いいと思う。

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