全ては決まった偶然だとしても

先週のデスカフェで、興味深い話題になった。
きっかけは「自殺についてどう思うか?」という、ハードな話題提供だった。
ここからどう展開するかな…と見守っていたら、「命は誰のものか?」という方向に話が動いた。

自殺や安楽死は「死ぬ権利」という文脈で語られることが少なくない。
特に安楽死先進国では、個人が自由に生きる権利の中に「死の選択」を含むという考え方が採用されることが多い。

でも、そもそも命は個人のものなのか?
確かに今、この命を生きているのは「私」だ。
でも、「私」は自分の意志でこの世に生まれた…とは言いづらい。
(そういう信仰もあると思うが、私の感覚ではそうではない)

この命が「私」のものなら、生まれることも、誰を親にするかも、その他諸々もっと思い通りに出来てもいいはずだ。
にも関わらず、私たちは自分が意図していないうちに生まれ、ままならない人生を送る。
全て思い通りなんて人は、おそらく存在しないだろう。
自由に選べるはずの大量の選択肢の中で、私たちは本当に自分の意志で何でも選んでいるのだろうか?

何でも好きなものを選んでいる。
私はその選択に納得している。

そう思いたい気持ちはわかる。
でも、そうではない気がする。

以前、こんな本を読んだ。

本では、様々な心理学的な実験などを引き合いに出しながら、自由意志で選択していると思っていることが単なる身体的な反射に近いようなことを指摘する。
決定に関わる因子は環境が大きく、それはほとんど偶然によってもたらされる。
したがって、自由意志などというものはなく、すべて幻想に過ぎないというのだ。

かなり飛躍した論だが、そうかもしれないなと思う。
宗教で言い換えたら、「全て神の思し召し」だったり、「縁起」だったりするのだろう。

以前もnoteで書いたが、決まっている未来に私たちはどんな気持ちで向かい合えばいいのだろう?
何事も自分の意志によらない、仕組まれた偶然だとしたら、全てを諦めて淡々と過ごすしかないのだろうか?

いや、そうではないと思う。
決まっている偶然をどんな解釈で受け止め、そこにどんな感情を込めるか。
それさえも決まっているかもしれないが、それでも私はそこに「私」が現れるような気がしてならないのだ。

豊かな人生のために、ファッションのスパイスを。 学びやコーチングで自分の深掘りを。 私の視点が、誰かのヒントになりますように。