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振り回されたいし生かされたい

 どこにいても「ここではないどこか」を求めていた。

 どこにいても「自分はお呼びでない」と焦った。

 そうした”満たされなさ“は、北海道での数年間の暮らしで、ずいぶん、薄らいだように思う。

 飽き性なわたしは、積読も重なるばかりで減らないし、じっとしているのも苦手。旅に出るのも、日常を「とりとめのないもの」として埋没させたくないから。

 四季のコントラストが強い北海道では、春夏秋冬とそれらの間にある名もなき季節とで、まったくちがう国かと思うほど景色が変わる。

 雪解け水が眠っていた根と土を覚ます春、点描のような緑が波のように森を覆う夏、楓や楢、白樺や山葡萄のの紅葉がまぶしい秋、冬眠しないどうぶつ(人間含む)の足跡と息づかいにわずかな緊張感がただよう静謐な冬。

 一年を一周するだけでは、まったく飽きない。むしろ「次の一年はどんな移ろいを見せてくれるだろう」と、また自然に翻弄される日々が待ち遠しい。

 暖房費が見たことないほど高額に跳ね上がったり、うっかり油断して水道管を破裂させたり、半泣きになりながら除雪したり、うまくいかないことだっていくらでもある。

 いま鹿児島に暮らしているから、年中あたたかい地域の豊かさも身に沁みる。

 お米が一年に2回も収穫できたり、タイヤ交換を気にしなくて良かったり、ヒグマがいなかったり、誰も何も手入れしていなくてもみかんが木になったりして、地の利とはこのことよ、と圧倒される。

 それでもわたしは、長く厳しい寒さに向かってゆく春夏秋のそれぞれの、刹那のかがやきがすき。

 そして、次の芽吹きに向けた充電期間として(体力その他を)蓄えよと強いられ、自然環境に振り回される感じが、きらいじゃない。

 人間のちからではどうにもならないはたらきによって、暮らしが左右される状態が、周囲を気にしすぎるわたしには、ちょうどいいのだと思う。

 「ここではないどこか」への渇望は、いつも他者起点の劣等意識が、みなもとだったから。

 森や川には、わたしがお呼びでないかどうかなんて関係ない。気にする意味も、価値もない。

 さらに、さいこうなのは、北海道で暮らしていたときの、周りの人たちの多くもまた、それぞれの暮らしに集中していたことだ。

 誰かと誰かを比べたり、批評したりしない。

 もちろん、好みや相性はあるから、どうしても馬が合わない人だっているし、誰も彼もが自分を律せているわけではないと思う。なまけたいときだって、あるし、甘えたり甘やかしたりで成り立つ地域の関係性もあり、それはそれで人間らしい。

 とはいえ、人口3,000人弱の町で出会った方々のほとんどは、他者に対して過剰に期待しないような、ご自分にも、時々他者にも厳しい人たち。

 「あなたはあなたの好きなように」。

 森や川、さらには暮らしている人たちにも、そう言われているような環境が、わたしの過剰な自意識を解放してくれる。

 いい意味で「自分はなんてちっぽけだろう」と、省みることができる。

 特別な技術や、世の中があっと驚く才能がなくても、卑屈にならず、おごらず、真摯でいたいと、素直になれる。

 えらぶったり、虚勢を張る必要はない。というか、見栄を張れば、すぐに見抜かれるし。

 ちゃんと向き合ってくれる人がいる環境だと、自分も健全でいられる。他者は鏡だと常々思う。

 そんな場所を、見つけられたこと自体、ミラクルだ。

 見つけたというか「居てもいい場所」に、してもらったのだ。

 そんな地を、なぜやすやすと手放せようか。


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