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「ここではないどこかへ」と思っていた3年前

なにかに呼ばれるように、なんて言ったら、聞こえがいいかもしれないけれど。

じっさいは、なにかを振り切るように、たどりついたようなものだ。

はじめは「3年か、長いな」なんて、思ったけれど、未知なる日々を前に、不安は小さじ1、あとはおおむね好奇心のみで超楽観的だった、3年前。

北海道に行く前、こんなことを書いていた。

利賀村で頭をガツンと殴られてからというもの、どこへ行っても“そこで何をするか”で世界はガラリと変えられるという確信を得た。  だから、北海道に行くといっても東京や関東近郊の友人たちとは永遠にお別れだとはまったく思っていないし、むしろいろんな世界が近づいてきてくれるんじゃないかという感覚がある。 たとえば、人間の細胞などのミクロな世界にどんどんズームアップしていくと、いつの間にか宇宙の銀河のそれと似た構図が立ち現れてくるような。 逆に宇宙をズームアウトしてどんどん広域的に見ていくとDNAや細胞の配列に見えてくるような。 そんなふうに広がりを持って世界を見ると、かなり身近な世界のあれこれも見えてくる。その原理が真実だということを直感的に理解した。 だから物理的な距離の遠さが、何かを近づけてくれるはずだと信じている。

3年前のわたしに伝えたい。

「あなたの予想は、当たったよ」と。

下川町という場所が、物理的な距離に関係ない物事の普遍的な生々しさを、教えてくれたよ、と。

東京にいても、どこか風来坊みたいな心持ちだった3年前。

「ここではないどこかへ」と焦っていた、3年前。

下川町に行けば、四方八方無理難題。

身の丈以上のことを求められては、つま先が地面を離れるギリギリまで背伸びをする日々。

「東京にいたときより忙しい」なんて笑っちゃうくらい毎日、ずっとずーっと、なにかしら地域にまつわることを考えていた気がする。

誰かに指示されたわけでも、課せられたものでもないけれど、自分の素朴な問いの先をたぐりよせて選んで住み始めた場所だから、自然なことのようにも思う。

失敗したり挑戦したり考え込んだり、新しい遊びや知識もたくさん教えてもらったり。

わたしがつくり出した価値なんて、端金にもならないけれど、もらったものは、なにものにも替えがたい。

もう「ここではないどこかへ」とは、思わなくなったのだもの。

余計な焦りが、消えたのだもの。

聞くべき声、見るべきもの、聞かなくてもいい声、見なくてもいいもの──それらを選択するものさしの精度が、100万倍くらい研ぎ澄まされた気がする。

泥臭いできごと、汗臭い作業や、まだまだ解決しなければならないこと、わたしが手をつけたものの形になっていないことだって、ある。

わたし一人でできることには、限界がある。

けれど、わたし一人でも、できることがある。

その両方を、生々しい手触りとともに、教えてもらった。

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「下川町での3年間が終わってから、どうするの?」と気にかけてくれる方がいて、うれしい。

どこで、だれと、なにをするのかは、ちょくせつ会って、お伝えしたいけれど、今日noteを書きたいと思ったのは、わたしが今まで携わっていた仕事が、いったん手を離れるから。

というのも、わたしが手放す予定の仕事をバトンタッチする人が、いないという由々しき問題が発生している。

わたしが担っていた仕事のジャンルとしては「広報」にあたるのだけれど、その言葉の定義はさておき、横断的な知識(メディア、SNS、イベント企画、プロマネ)がほぼすべて身につく(走りながら学ぶ)し、なにより職場の決定スピードが早い。そして仕事に対する裁量が大きい。

誰かに指示されるのが好みではないわたしは、一回のやりとりでプロジェクトがいくつも進んでゆく軽やかさに驚いたし、助けられた。

風通しの良い現場に身を置かせてもらって、かつて教えてもらった「パブリックリレーション」としての「広報」とはつまりなんなのか、五感を通じて学んだ。

仕事をする環境以外にも、3,300人規模の町に暮らしていると、地域を広く伝える仕事が、役得なことも多い。

単身&女性のわたしにとって、知らない人しかいない地域で暮らすとなると、なかなか輪に混ぜてもらうきっかけが掴めない。

けれど、広報(パブリックリレーション)的仕事は、「その輪に入れてください」とお伺いする良いきっかけになる。

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リレーション、つまり関係性を紡ぐためには、言葉にして伝え続けることがなにより、だいじ。

「とりあえず来てよ」とは言うものの、「とりあえず行こう」と腰を上げる背景には、誰かの一言が強烈に背中を押している事実があったりするものだ。

そういえば、過去こんなことがあった。

下川町とその他別の都道府県の特定の地域の人たち、総勢80人くらいで、グループに分かれてディスカッションをする機会があった。

そのなかで、ある男性が「下川町は、PRがぜんぜん足りていない」と発言した。

下川町に住み始めて一年目、負けず嫌いかつ、心に松岡修造を住まわせているわたしは、ハラワタが煮え繰り返るほど悔しくて「おめえの地域の500億倍有名になってやるよ!!!!!!!!」と心の中で中指を立てたが、翌年のその集まりに、男性は居なかった(住んでいた地域を出て行ったらしい)。

500億倍有名になったかは分からないし体感だけれど「下川町、知ってますよ」と言ってくださる方の数は、確実に増えた。

……と、この話は余談。

とにかく広報という仕事は、自分次第で、どうにでもなる。

だからつらく、そしてたのしい。

「ここではないどこかへ」なんて、無い物ねだりをしている場合ではないのだ。そんな暇は無い。

ちなみに、わたしがもうすぐ手放そうとしている仕事のバトンも、まるっとすべてを明け渡してしまうわけでは無い。

3年間携わってきた仕事の一部は、これからも少しだけ、住む場所問わず続けてゆけたらと思う。

お仕事に関して詳しいことは、これ↓を見ていただきたい。

書くことを、これから仕事にしようと思っている方は、とてもやりがいがあると思う。

あとは、不便さを打ち消すほど輝く何がしかを、掘り起こしたいと思っているプロデューサー的審美眼をお持ちの方(もしくはそういうことがやりたい方)。

その他、まだ真っ白なキャンバスに、自分なりにやりたい絵を描いて、手足を動かしたい挑戦者に、このバトンよ、届け!

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