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物の怪の類。

大学生のとき、学内劇団に所属していた。
私たちはそう自称していたが、所謂演劇サークルだ。ダンスが専門の人、演劇が専門の人、どちらも好きな人、いろいろだった。

その中でも、やっぱり宝塚と劇団四季の話は外せない。普通に10人集まったところでその中に四季の会の会員は私しかいない。
だけどここでは、10人いたらその内2人が劇団四季、4人が宝塚、2人がキャラメルボックス、のこり2人がその他…といったところだろう。
ちなみにその他2人はなにも観ていないのではなく、興味を引かれればなんでも観に行くタイプだったりするので、ある意味この2人が1番詳しい。

こんな話がある。
あるヅカファンがトップの男役の追っかけをするほど好きで、全国どこでも観に行くほどだったのに、その人がトップじゃなくなった途端にまるで憑き物が落ちたようにファンを辞めてしまった。
これは宝塚あるあるらしいのだが、四季を何年も観ていてもそんな話は聞かない。
この「憑き物が落ちたように」という言い方が妙に引っかかって、その場でしばし考えた。自分が大好きな役者を思い浮かべて、そのときがきたらどうするだろうかと。

宝塚の追っかけをしていたというより、その憑き物が落ちた人は男役トップのファンだったことになり、その人がトップでいることがなにより好きだったことになる。自分の求めるその人の姿じゃなくなったから、まだ宝塚には在籍しているのに、ファンを辞めてしまったのだ。

舞台には魔物が住んでいると言われているが、演者に限ったことだと思っていた。
たまにそうとしか言いようのないことが起こる。
やり場のない気持ちを納得させるためにある例えなのかもしれない。
でも、きっとこの人に舞台の魔物は取り憑いていて、憑き物が落ちたとしか言いようがないほど、考え方も、お金の使い方も変わったのだろう。

最近、よく喋るようになった。
声に出さないネットのやり取りもよくするし、こんな風に文章もたくさん書く。
その分、以前は意識的に避けていたインプットを怖がらなくなったし、本も読むようになった。
表現する場のない今の自分を認めるのが怖かった。
たくさんのものに触れて感性を高めても、それをアウトプットする行き先がない。
見れば見るほど、読めば読むほど、そのことを痛いくらいに味わうことになるから。

私もなにかの類の憑き物が落ちたのかもしれない。

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