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京都で音楽と暮らす場を vol.2

流れを感じたその衝動のままに暮らしの場をイメージし描いた前回の記事。

https://note.com/misadjabhakti20/n/n0687f22cf819

そこにある想いを残しておこうと思います。

わたしが今、音楽に軸足を置く想い

それはその奥に共生っていうテーマがあったりする

生きにくさがあってもなくても
"それ"を自分がすることが経済的な生産性という前提だとやっていく価値が低いとされたとしても

そのひとが命を燃やして注力すること 
それ自体が何より尊いと思う


このあたりの価値観が生産性に傾くと
優生思想に繋がっていったり
命の価値を選別してしまったりするのかもしれない
わたしは何か物質的なものを創りだすことができなくても
たくさん心の豊かさを与えてくれる存在の方たちと
一緒に過ごしてもらってきた


音楽に関しても 
本当はとても好きでやり続けたいのに

”お金にならない”からという理由で 
それを生きる真ん中におくことを若いうちから諦める人が多いんじゃないかと。

そんなことも影響して
今の若いひとに音楽の継承者が減っているという面あるんじゃないかと。


学生の時、自分が何をして生きていくのかを今すでにこれは”仕事”ですという選択肢のなかから選ぶこと以外に私は見方を知らなかった(結果作業療法士を選んだ、そこに導いてもらったことはとても有難たかった。)

自分の生かし(活かし)方があって、それを利用して周りとエネルギーの交換をしていく感覚がナチュラルだなあと思う。
あるもののなかから選んだとしても、どっちみち、導いてもらえるということもあるけれど。

今の仕事をしながら、どんな場所でもどこでも自分の活かし方=情熱の沸かし方というのはあるものだということがわかった。
長くそこにいると何か違うんじゃないかと思うこともあったけど、抽象度をあげて捉えていくと切り口はたくさんあるとわかった。
わたしの場合、その気づくきっかけは純粋に自分の喜ぶことをすることを許したからだったと思う。

わたしはその"自分の喜ぶことを懸命にしていいんだということ"を わたしの在り方で表現したい。
そしてそのエネルギーを祈りにかえていく。
この喜びをすべての生きとし生けるものが感じられるようになっていきますように。そのために私が何をできるのかと。
作業療法士という仕事(本当に誇りに思っています)をしているからこそ、わたしが大切なものに注力して幸福感に満ちていないとわたしと向き合ってくれる方の幸福を語れない。
自分の大切な価値と役割はだんだん絡んで結合していく。注力、専心していった先に。

仕事、職場に恵まれている。それを手離してまで、”お金になる”という理由もたたない、純粋に好きなことをしてみて、どうなっていくのかをみてみたい。そしてその結果で、昔の私のような音楽を奏でること もしくは大切な夢を諦めるひとに、やっていいと思える力を添えることができたならうれしい。

誰かの役に立っているかどうかの基準を、今の貨幣価値、市場価値だけに任せずに、まっとうそうなことだと言われているフレームにも縛られずに、本当にその人の命を輝かせることで広がるエネルギーに価値を見いだす方法を考えたい。

”プロ”じゃなくても音楽を気軽に奏でてシェアしあえる場を、表現できる場をもっとひろげたい。音楽や唄は人前にたって演奏すると評価されるものになりがちだけれど、そうじゃない。心を分かち合うものなんだ。

インドの歌を歌っているけどわたしは日本のこころがだいすき。
そこに共通の祈りを感じるものはどこの国の歌でもジャンルを問わずに心を唄いたいと思う。

”ひとのために、まわりのために”の想いをもてること。そのときに自分も含めて満たしていけることが、持続可能な共生なのだと思うんだ。
自分も誰も犠牲にしない多様性もまるっと含められるみんなが幸せに過ごせる場を創りたいな。
流動的に!


初心を忘れないように
未来の自分への覚えがきとしても
共感できる人とと繋がれるための種としても
書き残しておきます。



読んでくださった方、
ありがとうございます🙏✨

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