夜中2:47

 孤独が悪だと誰が決めたんだろう。

 孤独な人間は、辛い、寂しい、はたまた恥ずかしい、だなんて言葉をよく耳にする。しかも辛い、寂しい、はたまた恥ずかしい、と声に出しているのは孤独な人間本人ではなく、何も知らない他人が口にしている。当の本人はひとりで誰とも群れない環境が好きかもしれないのに。誰よりも充実した生活を送ってるかもしれないのに。

 もし、現在恋人もおらず家族とも疎遠で、友人と思っていた人たちとも何だか上手くいかなくって「孤独だ」と感じ、自分は無価値だからそうなるんだ、寂しい、何も楽しみなんてない、これからもずっとひとりぽっちなんだ、消えてしまいたい、と考えているとする( 少し前のぼくなんですがね )。
 無価値だからなんかじゃないよ。「孤独」は寂しいかもしれないが、消えてしまう必要はない。ただ何年続くかわからない人生のほんの刹那に訪れる時期なだけ。そしてこの「孤独な時期」は大切な時期。
 感性を研ぎ澄まして、透明で鋭くする時期。
 「孤独」とは言い換えれば「自由」。
 その自由を思う存分使い果たして、自分の好きなことだけすればいい。溜まった積本を読むなり、やってみたかった水彩画にチャレンジしてみるなり、何かスポーツをはじめてみてもいいじゃん。お菓子作りにチャレンジしたり、登山、釣り、はたまたPCゲームにのめり込んでもいい。好きなことだけして夢中になればいい。夢は無限大、そのいつか叶う筈の夢に向かってひたすら準備する期間にしたらいい。
 文句を言うひとには中指でも立てたらいいよ。

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 最近、まったく脳内がまとまらなくて困っている。溶けたアイスクリームに群がる蟻みたいに、ウゾウゾとずっと忙しなく蠢いている。
 毎日おきにいりの人たちの記事を読んで、毎週投稿していたnoteも、しばらく開かずにいた。ほんの数回アプリを起動して脳みその中身を陳列しようとしたが、結局何も書けずにアプリを閉じてを繰り返していた。でもずっとナニカ文章を書きたい気持ちはあった。少しばかりの焦燥感を胸に。

 7月後半から鬱がひどく、いちにち天井を見上げて過ごす日々が続いていた。誰とも会っていなかった。猛暑のせいもありそもそも外に出たくなかった。なにもしたくなかった。死ぬことですら面倒臭かった。それは8月頭まで続いた。やっと少しずつ仕事も再開して、天井以外のものも見るようになれたかと思うと、今度は激しい躁が顔を出しやがった( ぼくはこの躁の時期、ずっと自作のちゃんぽん麺の歌とダンスを作り歌い踊っていた、ロック調である )。躁も躁で、脳内でずっとワァワァ騒いでいるナニカがいて、本も読めなかった。
 そんな時期が先週くらいにすこし落ち着いてくれた。
 だからひさしぶりにふわふわと文章を書いてみている。だから文章がヘタクソである。前半ナニを伝えたいかいまいちわからない。ただの綺麗事な気もするし自己弁護しているだけな気もする。ははは。


 まあいいや。
 そろそろ寝ないと明日の仕事でブっ倒れてしまう可能性があるのでこの辺でもう寝ます。
 
 さようなら。

 

 

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