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第4話 「未来と勇気の放課後」

「…なるほど。さっき未来ちゃんが僕に『社会秩序はどうやって保たれていると思う?』って訊いたのは、今日の社会学の授業に触発されてのことだったんだね」

 佑希君はそこで一度言葉を切って、腕を組みながら「うーん…そうだなぁ」と視線を宙に這わせた。

「僕は社会学のことは知らないから、僕の回答が社会学の立場から見て適切かどうかわからないけど、社会秩序が保たれるためには、個々人が社会でそれぞれの約束を守りながら誠実に生きることが必要なんじゃないかなって思うんだ」

「約束を守りながら、誠実に生きる…」

「うん。今日未来ちゃんが授業で聞いた『社会契約』とか『秩序問題』とはちょっと違う方向の回答かもしれないんだけど…『社会秩序が保たれている』っていうのを僕なりに定義すると、人間同士支え合って社会生活が営まれている状態、なんだ。そして次に考えたのが、人間同士の支え合いがどうやって成立するかってことなんだけど、それは、他人を思い遣ることだったり、互いの約束をきちんと守ったり、誠実に関わることを通して成立するんじゃないかなって」

 佑希君が話しているのは紛れもなく自分の言葉、自分の考えだ。
 私は、ただ相槌を打つことしかできないでいる。

「一回限りの物々交換で済ませる間柄なら、それこそ功利主義的に、合理的に、約束なんか無視して自分が一番得をする選択をすればいいんだろうけど、多分、『社会』で生きていくっていうのは、誰にとっても何かしら人との関係が途切れず続いていくことなんじゃないかって思ってさ。人が集まる中で生きていくのに、他人を騙したり蔑ろにするような生き方をしていると、信用を失くして誰からも相手にされなくなる。
 だから、約束を守ることとか他人を思い遣るってことは、結局自分のためでもあると思うんだ。えーと、要するに、誠実に生きる個人の集まりが、社会秩序を保っているのかもしれない…と僕は思ったんだけど…」

 佑希君はここで言葉を切って、「こんな回答で良かったかな?」と遠慮がちに締めくくった。そして、気になっていたのか、さっき私がピックアップしておいた社会学の入門書に手を伸ばし、「それにしても、社会学ってなんだか面白そうだね」と言いながらパラパラ目を通し始めた。

 何か返事をしたいのに、私なりの意見を伝えたいのに、思いつかない。焦る。
 焦っているのに、こんな時でも「正答」を探してしまう。私が優秀であることを証明するような回答を――

 私の言葉、私の考えはどこにあるんだろう。せっかく佑希君がこうして付き合ってくれているのに、どうしよう。

「…すごいね佑希君。ふつう、学校や塾では習わないようなことにも、ちゃんと自分の考えを伝えられるなんて。……本当に、すごい」

 口から出た、なんのひねりもない拙い言葉たち。でもそれは私の心からの、感想だった。
 佑希君は驚いたように本から顔を上げ、即座に反応する。

「いやいや、全然だよ!僕より未来ちゃんの方がずっとすごいと思うよ!」
「え?」
「受験勉強で大変な時期なのに、こうして新しいことにも関心をもって学ぼうとしているなんて、なかなかできることじゃないよ。やっぱり未来ちゃんはすごいなぁって思う。未来ちゃんは頑張り屋さんだもんね。未来ちゃんなら、きっと合格できると思う!僕、応援してるから」

 お世辞でも、気遣いでもない、佑希君の真っ直ぐな賛辞に、私の胸が締め付けられた。
 違う、違うの。私は、全然すごくなんかない…
 頑張っても、頑張っても、私はおばあちゃまに認めていただけるような結果を一つも出せていない。
 四時間目、何もできなかった自分。受験に失敗し、家族の和を乱した自分。

 考えたくないこと、思い出したくないことに頭と心が支配されていって、顎が首につくくらい、私は項垂れていた。血の気が引いていく。おそらく、今の私の顔は真っ白だろう。

「…そんなこと、ない、よ」

 やっとの思いで振り絞った私の声は、震えていた。

「わた、し…は、ぜんぜん、すごくなんかなくて……今日だって、ぜんぜん、だめで……。クラスメイトの子たちは、ちゃんと自分の意見を言えていたのに……こんなんじゃ、わたし、また…おばあちゃまから………」

 目尻に涙が溜まっていく。
 おばあちゃまの鬱陶しそうな視線と「みっともない」の言葉が私に「泣くな!」と警鐘を鳴らす。そうだ、泣いちゃいけない。みっともないし、相手を困らせるだけだ。私は鼻をすすり、素早く涙を拭った。

「……未来(みらい)ちゃん」

 たまりかねたように、佑希君が気遣わしげな視線とともに私の名を呼んだ。
 私は俯いたまま、小さく「ごめんなさい。大丈夫だから」と応じる。

 すると、佑希君は「未来ちゃん、僕の目を見て」と言って机に身を乗り出した。
 佑希君の瞳に私の顔が映り込むのと同時に、佑希君は口を開いた。

「未来ちゃん、僕、そんなつもりはなかったんだけど、未来ちゃんにプレッシャーをかけてしまったみたいで、本当にごめんね」

 心から申し訳なさそうに頭を下げる佑希君に、私は大袈裟なくらい首を振って否定の意を示した。
 佑希君は困ったように一瞬笑って、それからすぐに真剣な面持ちに変わる。

「まず、これだけは伝えておくね。僕は、未来ちゃんがだめだなんて全然思ったことはないし、それどころかすごく素敵な女の子だって思ってる。だけど、未来ちゃんが自分のことをそう言ってしまうだけの理由がきっと、あるんだよね。……僕は、そのことが、すごく歯痒い。さっきの未来ちゃんのつらそうな顔を見て、僕は、なんとかしたいって思った。だから未来ちゃん。もし、もしもだよ?僕が聞いても良かったら、話してみてくれないかな」

 じわぁっと、私の目頭が再び熱くなった。
 もう泣きたくなんてないのに、次から次へと涙が頬をつたっていく。
 佑希君は昔から察しが良かった。わざわざこの部屋を用意してくれたのは、単に質問に答えようとしたんじゃなく、やはり私の異変に薄々感づいてのことだったのだ。

 ハンカチを取り出し、両眼を押さえつける。
 どうしよう、何から話せばいいのかわからない。
 ぐちゃぐちゃに絡まった糸が、私の首をゆっくり締め上げていくような息苦しさ。空調の音がやけに耳に障る。とにかく一回落ち着こうと息を整えた。

「……みんな、私が、悪いの」
「どうして、未来ちゃんが悪いの?」
「わ、私は、できそこないで……小学校受験に失敗して……笠原の女の子はみんな合格してるのに、私ひとりだけ、だめ…で…おばあさまを、がっかりさせてしまったわ。
 おばあさまが、未来は出来損ないだって、お前に似たんじゃないかって、お母さまに言って…お母さまが、すごく、…悲しそうな、顔を………。お父様にも、ご心配をかけてしまっているの。私さえ、失敗しなければ、間違わなければ、家の中は、ずっと平和だった、明るかった、のに…………」

 佑希君は何も言わず、たどたどしく紡がれていく私の言葉を受け止めていた。その手は血管が浮き出るくらい、ぎゅっと握り締められていた。

「だ、だからっ、私は、今度こそ絶対に、絶対に、合格するために、必死で、勉強してきたの。おばあさまのご期待に応えて、おばあさまやお母さま、お父さま、みんなに笑顔になってほしい。そ、それなのに、……………今日の、学校の授業で、私、何も……。…く、クラスメイトたちは、私より、ずっとずっと、物事を考えて、質問したり、発言していたのに、私は、何も…何も……」

 そうだ、私は心のどこかで、クラスメイトのみんなを、そして、先生のことさえ、見下していたんだ。
 だから、こんなにもショックで、焦って……。なんて浅はかで、嫌な子なんだろう。
 頑張れば頑張るほど、天藍に近づくどころか、勝手に人をみくびって、侮って、そんな人間になっていたって今更気づくなんて。

「う、うううーっ」

 情けなくて、悲しくて、消えてしまいたくて、ただただ涙と嗚咽が止まらなかった。
 そりゃあ私は、自分から積極的に人と仲良くしようとはしてこなかったし、周りから見たらとっくに「嫌な子」だったかもしれない。
 だけど、私は私なりに、天藍にふさわしくあるために、気高く、努力を惜しまず、不用意に自分から人を傷つけたりするような人間にはなるまいと心掛けてきたつもりだったのに、結局はこの有様だ。
 私が失意のうちに言葉を失っていると、佑希君の動く気配があった。


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