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第七話 『愛と秩序の四時間目 小学六年生への社会学講義』

?社会の秩序はどのように成立するのか?
■タルコット・パーソンズ(1902〜1979)アメリカの社会学者……
■トマス・ホッブズ(1588〜1679)イギリスの哲学者
 ・秩序を欠いた「自然状態」を「戦争状態」と考えた←解決のカギは「社会契約」!
 ※秩序を欠いた自然状態、というのは政府や法や道徳などがない状態……

 すり減ったチョークを置き、指先だけで粉を払う。

 新旧二つの黒板を背に、咳払いを一つして喉の調子を整えた。
 事前の計画にはなかったぶっつけ本番。それでも、初めて授業に臨んだあの日よりはまだマシだ。教員六年目ともなれば、愛のハートだってそれなりにタフに育っている。

「パーソンズが提起した『秩序問題』が問うている内容をわかりやすく言い換えると、どうして人は慣習やしきたり、法律のような規則をちゃんと守るのか。自由に行動できる人たちの集まりの中でどうして社会に秩序が生まれるのかっていうことなのね」

 翔吾がすかさず反応する。

「えー!そんなの、ルールを守らなかったら警察に逮捕されちゃうからじゃないんですか?」
「その警察がいなかったらどうするの?逮捕する人がいなければ守らなくてもいいの?誰もみていなければオッケーなのかしら?」
「なんだよ先生、意地悪言うなよ〜!」

 悔しそうに口を尖らせる姿が微笑ましい。

「ふふ、ごめんね。意地悪じゃないの。今、私たちが暮らしている社会では『警察が存在している』というのが『当たり前』だし、『常識』よね。だから、ついその前提で考えてしまうのは仕方がないわ。でも、その『当たり前』や『常識』を基にモノを考えようとすると、見えてこない、気づかないことがたくさんあるの。社会学ではね、そういう『当たり前』や『常識』を一旦わきにおいて、物事を観察したり、考えたりすることで、『社会』とかその社会に生きる私たち人間の謎を解き明かそうとするのよ」

「へぇ〜…社会だけじゃなく、俺たちのことも、かぁ…面白そうだな…」
「ね。じゃっ、改めて。警察が居ないとして、どうしてルールを守ろうとするのかしら?」
「うぇぇ!まだ俺のターンかよ〜…しーん!バトンタッチだ!」

 降参したらしい翔吾がさっと身をよじって後列を振り返り、窓側の席に向かって助けを求めた。

「しん」と呼ばれた少年――袋井信は、目鼻立ちのはっきりした顔を一瞬驚きに染めたが、すぐに視線を愛に合わせ、落ち着き払った声で「少しだけ、考えさせてください」と答えた。その様子に、翔吾は「信、頼むぜ〜!やられっぱなしじゃ悔しいもんな!」と拳を握る。

 ――この容姿、そしてこの対応力。そりゃあ憧れるよねぇ。
 愛は心中でひとり納得する。愛の見立てによると、どうやら翔吾は信を相当気に入っているらしい。

 新学期が開けて早々の休み時間、愛は「なぁなぁ、どうやったらそんなモデルみたいな体型になれんの?」「俺ももうすぐ追いつくから待ってろよ!」と翔吾から話しかけてられている信を見かけたことがある。

 矢継ぎ早に話しかけるテンションの高い翔吾に対し、「そうだなぁ、気がついたらこうなっていたからなぁ」「どうしよう、追い抜かれちゃうなぁ」と嫌がるでもなく穏やかに笑って優しく答える信の包容力には愛も驚かされた。そんな信に翔吾はすっかり懐いて、今もこうして彼を頼っているのだろう。

 体感にして五秒経つか経たないか、信は挙手しながら言った。

「ルール…決まりは、守るものだから、です」
「ええー!そんなん当たり前だろ…あ、いっけね!当たり前はわきに置いとくんだった」

 肩をすくめる翔吾に「も〜愛ちゃん先生が言ったこと忘れたらあかんで!」と緋沙子が明るくたしなめた。もう誰も、翔吾の発言を迷惑がってなどいない。
「で、先生!信の答えは合ってるんですか?」
待ちきれないといった様子で翔吾が身を乗り出した。
六年二組の視線が愛に集中する。

「決まりは守るもの…そう、そこなのよ!重要なポイントだから、覚えておいてね」

「おおーっ」と教室から驚きと感心の入り混じったざわめきが起こり、信と翔吾が嬉しそうな顔で互いに頷き合っていた。

「ここで、パーソンズが『秩序問題』を考えるために注目したホッブズに目を向けてみましょう」
「さっきのおじいちゃんだ!」
「パーソンズもおじいちゃんやったやろ!」
「じゃあ、おじいちゃんその二!」
「なんやねんそのモブみたいな扱い!ホッブズさん草葉の陰で泣いてんで!」
「(二人ともたまたま歳をとってからの写真ってだけでしょ…)」

 翔吾と緋沙子の軽快な掛け合いに、未来は心の中で突っ込みを入れていた。が、声に出ているわけではなかったので、周囲の生徒らは誰も彼女が(無意識であれ)積極的な姿勢を見せ始めていることに気付かない。
愛の知る授業中の未来は、いつも行儀が良く、必要な時にそつなく「正しい」発言をする成績、品行ともに優れた生徒だ。にもかかわらず、そんな優等生としての印象を打ち消すくらいに、いくつか気掛かりな点が未来にはあった。

 ただ自らの義務をこなすべくそこに存在しているような温度のなさ、時折見せる感情を忘れたような表情、そして、未来から醸し出される周囲を隔絶するような雰囲気。およそすべてが子どもらしさから遠くにあるものばかりで、愛は未来から目が離せなくなり、彼女の境遇や心境を斟酌しようとし、未だ明確な答えを得られずにいた。

 手持ちの情報だけで推察すれば、もうとっくに塾で学習済みの、しかも過去に習った内容より低レベルであろう授業が展開されているのだから興味をもてないことは容易に想像がつく。自分を見る未来のどこか小馬鹿にした眼差しも、おそらく彼女の母親に影響を受けてのものかもしれない。

 未来にとっての自分は、「すでに分かりきったこと」しか教えない、つまらない教師なのだろう――邪推の域を出ないにしろ、その点については不本意ながら確信もあった。実際、これまでの自分は未来のことを抜きにしても、六年二組の関心をひくような授業はできていなかったのだ。それすらできずに、未来が真に抱えている(かもしれない)苦しみをどうにかときほぐしてあげたいだなんて、思い上がりもいいところだ。何よりもまず、教師としての本分を果たさなければ。

 愛はちらと未来を見遣る。
 気のせいでなければ、未来は今、初めて自分の授業に関心を寄せている。
 私が教えられる事、伝えられる事は何なのか。懸命に絞り出していく。

「まず、ホッブズは、法も道徳も存在しないような状態の中で社会がどうなってしまうかを想定したのね。法や道徳のような人を制約するものが何もない状態…これを『自然状態』というんだけど、ホッブズは、この『自然状態』の下では人間の本性が剥き出しになって、お互いに自由や利益を奪い合う戦争が起こってしまうと主張したわけ。こうした主張には、ホッブズの人間観が見て取れるわ。つまりホッブズは、人間を自己中心的な存在と捉えていたのよ。だから、自然状態に置かれた人間は皆自分の利益のため好き放題やってしまう、と考えたのよね」

・秩序を欠いた「自然状態」を「戦争状態」を考えた

 板書を指さし、あえてとびきり難しい顔を作って愛は話を続ける。

「『自然状態』による戦争が続けば、人々は恐怖と命の危険に晒されるばかりか、ついには滅んでしまう恐れもある…それはつまり、自分の命を守るという人間が生まれつきもっている『自然権』の権利が保障されなくなってしまうということを意味するわ。そうならないために…言い換えると、戦争を回避して、秩序を生み出すにはどうすればいいのかホッブズは考えた」

 ここで待ってましたとばかりに翔吾が挙手し、食い気味に口を挟んだ。

「はい!その解決策なら俺、知ってます!社会契約ですね!」

 まるで自分が考えついたかのように答える翔吾に、「黒板に書いてあるじゃない…」と未来がため息まじりにつぶやいた。「ほんまや!」と楽しそうに笑う緋沙子らの声に、未来はハッとした様子で慌てて口元を押さえる仕草をし、ほんのりと顔を赤らめてバツの悪そうな表情をしている。

 なんでもないようなやり取りだった。しかし、愛にとっては確かな手応えに感じられ、心が弾む。
 それにしても、やはり翔吾の理解の早さや反応の良さは目を見張るものがある。
 少しお調子者めいたところはあるが、もしかするとそれすら計算なのではないか、と思わされてしまう。

「素晴らしい解決策ね、眞家さん!」

 とはいえ、締めるところは締めておく。横目で翔吾をじろりとやり、芝居がかった口調で褒めると、翔吾は悪戯っぽい笑みを見せ、「でしょ?後世に残る解決策だと思うんですよ」とさらに冗談をぶつけてきた。

 ううむ。お主、いい度胸をしておるな。

 愛が胸の内で唸っていると、未来が焦れた声で「先生、社会契約で解決するってどういうことなんですか?」と訊ねてきた。知りたい気持ちが上回ったのか、先が気になって仕方ないと言わんばかりに、タブレット専用のペンを握りしめ愛をじっと見つめている。
 そうだ、あまり悠長なことをしている余裕はなかったのだ。愛は未来(みらい)に軽く頷いてみせ、話を戻す。

「ホッブズが主張する『社会契約』の内容とは、自分たちが持っている自然権を一斉に放棄して、その権利を強い国家に譲り渡して任せましょうってことなの。つまりね、社会契約による解決っていうのは、人々の自然権を守れるような強い国家を社会契約によって作りましょう!ということ」

 わかったような、わからないような――
 皆の顔に「?」が浮かび上がる。

「だーいじょうぶ!ちゃんと説明するからね。
 ホッブズは、戦争を回避するには契約に基づいた強力な国家を作る必要があると考えたの。皆が、もうお互いに自由や利益を奪い合ったりするような戦いをしません!って契約を国家と結べば、戦争はできなくなるわよね。その契約とはつまり、自然権を放棄して国家に譲り渡し言うことを聞きますから、ちゃんと自分たちの命や利益を守ってくださいねって国家と約束することなの。そうすることで法も道徳もないような自然状態から脱して、秩序が形成されるってわけ」

 一旦言葉を切った。もう少し踏み込んだほうが良いかと気にはなったものの、メインはパーソンズによる「秩序問題」である。ホッブズはここまででいいだろう。

「さぁ、一度まとめるわね。社会秩序はどのように成立しているか、に対するホッブズの解答は『社会契約』によって成立している、ということになるわ」

 ところが、と強調し愛は続ける。

「この解答に納得しなかったのが、パーソンズなの。どうして納得できなかったと思う?」

 眉間にシワを寄せて微動だにしない子、宙を見ながら頭を揺らしている子、「うーん、なんでだよ…」と声に出てしまう子、拳を顎に当てたり、わずかに首を傾げペンをくるくるさせている子、考える様子にもそれぞれ個性が出ている。

 もちろん、正答を期待して問いかけているのではない。
 ただ学ぶだけでなく、学びの中で疑問をもち、自分なりに考え、想像を巡らす癖をつけて欲しいのだ。

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