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理解不能性じゃんけん大会

『どの分野でも、尊重という姿勢を忘れない。どれだけ自分が凄いと思う分野でも、本屋というスペースにおいて、平等に他分野と並べられて、置かれているという事実。宗教は、神様仏様を扱う、全知全能を扱う分野だと思う。そして、そうした他にも、本屋でオールマイティな扱い方のされる分野は存在しているという事。投資、海外文学、古典芸能、写真、デザイン論など。デザイン論の名を借りた、宗教性の高い芸術的な本も存在するだろうし、宗教性の欠如した、宗教を語る本もあるかもしれない。また、ちなみに言うと、本屋に並ぶ書籍というのは、世間一般の表現形式の内の、わずかかもしれない、一つにしか過ぎないという可能性は、見過ごしがちである。意識しない、当たり前。例えばこれは極端だが、夜中に子供が熱を出した時にそれを執筆した本を出版社に送り、校正後本屋に並ぶまで、キチガイな親でない限り、それだけの時間を通常は待てないだろう。(こんなの、異常な感覚を頼りにした私のような作家稼業にしか書けない。トホホ。)しかもだ、書店に訪れる人が、その相手である、その子供の名前が記された本のタイトルに関心がなければ、自分の子供の窮状が記されたその本は、実際に手に取って貰えずに、子供を病院にやる機会は永久に葬りさられてしまうかもしれない。つまり、本屋をすべてだと取るわたくしに対して、日常の意識は、否応なしに拒否を突きつける。あらあら、わたくしと致しました事が、大変失礼致しました。それと同じようにして、表現という形や、名前そのものすら、人間という範囲に、カテゴライズされてしまう事は、止むを得ない「仕事中に、なにアクビをしているのだ!この腑抜けが!」と、先週入ったばかりの、観葉植物に語りかける上司がいたら、奇怪に違いない。恐らく、その会社は、自宅の飼い猫にも、保護者責任を求めるに違いない。いずれにしても、悪戯に助長な文章になった。私の本当に訴えたい内容は、なんらかしらの自分の得意とするものから、はみ出した自分を殊更、しかも普段通りに意識し、それを活用出来るまでに、通常の神経を磨き続けろという事。異端となる事に、恥を想い、煩うな。キチガイは、常に保護を求め安穏とする人種とは、乖離され切った所で、タイミング良く登場する、人は改革だと。今日は、仕舞う。この文章の後半部分に翳りが見える。宗教がすべて、宗教で表現出来ないものはなく、その為に書店にある空間的な座標軸から、自分にしかない世界観を相対化、対象化した。しかも、それに不足を感じた為、その本屋そのものを、表現形式の一部であると、突き放した。そして、それからの視点、「表現」という世界観からは、それを俯瞰する上位にあるものを見出せずに、その「表現」と同列にあるものを並べて、カテゴライズするという、手法に甘んじた。最後に、下賤な例え話を持ち出した事は、著しく私の宗教性を傷つける。

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