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功利主義と義務

倫理的行動の動機となる「正義感」は、必ずしも幸福に直結しない場合があります。この事実は、「正義」と「幸福」が必ずしも一致しない世の中に、人間は生きていることを示唆しています。

例えば正義感に従って倫理的に正しい経営をする企業が、業績を伸ばすという絶対的な保障はありません。そうなれば行為や意志の判断決定は、帰結以前の要素から成り立っていると考えることもできます。

最終的に幸福が最大限になることを前提とした帰結主義は、肯定されるべきではないと指摘する立場をとることもできます。帰結から正義(倫理的正当性)が見出せないのであれば、行動や判断の動機に正当性を探し求める非帰結主義をとることになります。

その動機の根源に存在するものが、「義務感」です。義務感は人間の行為の根底にある善意を司っています。倫理的行為の正統的な根拠を義務感にあるとする立場が「義務論」です。多数派の「快」の感覚よりも人間の誰にでも先天的に備わっている善意、つまり反射的に「しなければならない」といった義務的な責任感が、正しい行動を決断するための必然性と合理性を備えた判断を下す重要な要素となる場合、義務感は何か倫理的に正しくないことを行った時に反省行為へと繋がり、その後の理性的行為のための意思決定や行動を規定する基礎となるものです。

多数派の効用を最大限にすることが正しいとする倫理学説を功利主義と呼ぶことは前節でも述べたとおりです。功利主義に従えば、企業が最大限の利潤をあげることは合理的であるということになります。なぜなら企業とは利潤の最大化の目的に賛同して集まった構成員によって組織される集合団体だからです。ですから企業の利益追求は、各構成員の利益追求の合算とも言えます。

これは利益を最大限に確保することを第一義として掲げる経済学的立場からの定義です。ただ「利益」とは金銭的及び物質的利益以外にも、社会における自分の地位、名誉、権力、生きがい、社会奉仕による満足感や喜びなどといった精神的な利益もあります。こうした全ての利益を経済学では「効用」という言葉で表現します。この「効用」を最大限にすることが市場経済における企業やその構成員の行動の原理となっています。

しかし、こうした功利主義における利己心の追求は、他者の利害は考慮しないという問題を含んでいます。自己の利益獲得のためには他者の利益を損なっても構わないいという理論が成り立つのもまた功利主義の一側面です。こうした不都合に対しては、義務感から生まれる規範や倫理が必要となります。

規範や倫理は「どのような行為が正当化されて社会に受け入れられるのか」という基準を示します。この基準によって利己心から生まれる不都合や不利益を最小限に抑えることができます。自己の利益を最大限に追求するということだけではなく、目先の利益を放棄し長期的利益を重視した社会的規範に従う企業経営は、「義務論」を重視した一例と言えるでしょう。

このように義務論は、利己心を否定した反功利主義的な義務を動機とする行為が正しいとする考え方です。企業利潤を損なってでも環境に配慮「しなければならない」といった義務を前提にした環境配慮型経営などがその一例です。義務論は、行為の結果と行為の正しさは必ずしも関係性はなく、むしろ社会的義務から利己心の追求を断念するべきという選択肢を持つといった特徴があります。

例えばかつてブレーキ問題を起こしたトヨタ車や一酸化炭素中毒を引き起こすファンヒーターを生産した松下電器によるリコールは、この義務論を含んだ行動判断と言えます。このような企業決断は、結果として「社会的責任を果たす良心的な企業」という再評価を得ることになり、長期的に企業業績を伸ばすことになりました。(これは義務論的行動判断であると同時に、もしそうした行為が企業経営のプラスにつながるというセオリーがその基にあるとするならば、それは功利主義にも即している経営判断であると言うことができるでしょう。)

しかし生まれ持った人間の義務感は、私心のない善意によって為される行為だとしても、必ずしもそれが他者から評価されなかったり、逆に良かれと思って決断した行動が結果的に他人に迷惑をかけることにまで発展することもあります。その原因は義務論が主観的になり過ぎる点にあります。義務論的な倫理が主観的にならならいためには、個人的な行動指針が普遍的道徳の法則に適っているかを常に見極めて行動しなくてはなりません。これによって「何時でも」「誰でも」「何処でも」公正的で普遍性を持った行動判断かどうかの確認ができます。

例えば、「消費者は安いミンチ肉を望んでいるので牛肉100%と同じ味で安いミンチ肉を製造しなければならない」といった義務感で以て安価な種類の肉を混合してミンチ肉を製造して、味はあまり変わらないから牛肉100%と表示すると決断した企業を考えてみてください。いくら義務感に従って良かれと判断してやったとしても、この場合は間違った起業判断であることは、一目瞭然です。

こうした義務論の普遍性の問題については、過激派の環境団体による環境保全活動などにも見られます。例えば鯨を保護しなければならないという義務感のもとに、調査捕鯨を阻止しようと過激な行動を繰り返す環境保護団の活動などはその一例です。環境を保護するといった正しい義務感からの倫理によってなされる行為だとしても、それが暴力的行為の抗議となれば、それはどんなに正義感からくる行為であったとしても社会的に認められることはありません。


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