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火の鳥、そして俳句のかたち

堀田季何さんの第四詩歌集『人類の午後』に、私は手塚治虫の『火の鳥』を想った。

 『人類の午後』は、虚実・主客・時間の境を縦横無尽に飛び越えながら、人間の業といのちの儚さを詠んだ作品だ。

熒熒(けいけい)と蒲公英(ほこうえい)あり地雷原
自爆せし直前仔貓撫でてゐし(前は旧字)
天泣ぞこの花降らしたまへるは

 人間は、啀み合い殺し合い、乱れ惑い(著者の歌集は『惑亂』という)、何かに縋り、癒しと救済を求めながら、その長くもない命を突然終える。
 これらの句は言わずもがな、著者の実体験ではない。偶然その場に居合わせた火の鳥の視界に、ふと入った景色。悠然と大空に羽ばたきながら見下ろした地上にあった、人間の愚かな姿の一つだ。

 寶舟船頭をらず常(とは)に海(船、海は旧字)
 どの神も嗤笑してをり寶舟
 瓊玉も神も模造品(レプリカ)寶舟

 「人類」はあるときから急激に個体数を増やし、あっと言う間に我が物顔で地上を闊歩し始めた。彼らは夢と現の区別もつかぬようで、土を捏ね繰り回して何か妙なものを作り出しては、必死にそれを拝む。火の鳥にはそんな人間の行為が解せないー。

吾よりも高きに蠅や五六憶七千萬年(ころな)後も
みな聖樹に吊られてをりぬ羽持てど(聖は旧字)

 五六憶七千萬年後に救済に現れるという弥勒菩薩も、聖なる夜の神の使いも、火の鳥の前では形無しだ。

 一方で火の鳥は、人間の身勝手な取り決めを他所にひた生きるものたちに対する慈愛の眼差しを持つ。

戀の貓板門店を抜けにけり
地球儀のどこも繼目や鶴歸る
蟻深く容れ芍藥や日を返す(芍、返は旧字)
鳴くことをやめられぬまま蟬落ちぬ

 この句集における「われ」について、著者は跋の中で「幾つかの句に出てくる〈われ〉は、作者自身ではなく、過去から未來まで存在する人類の現代における一つの人格に過ぎない」(者、過、類は旧字)と語っている。さながら不老不死となり時空を超えて生きる『火の鳥』だ。

自宅警備員驅けだせり稻妻へ
  
「ジョン・セーリス航海日記」
死の日まで航海日記雁渡る(海はいずれも旧字)
擊たれ吊され剝かれ剖(ひら)かれ兎われ
タイムマシン着くどこまでも夏の海(海はいずれも旧字)

 かつて彼女が、句集を鑑賞することとは、その中の一句一句を鑑賞することとは違うのだというようなことを話していたのを覚えている。その当時は理解できなかったことを、私は『人類の午後』を以って実感させられた。
 作者のこころに流れる一つのテーマを明らかにすべく句集を編むこととは、こういうことなのだ。


 季何俳句の特徴は、人間との距離感にあると思う。
 歌人・岡井隆は「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人のーそう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。」と語った(一九六九、『現代短歌入門』)。
 歌人でもある著者は、普遍性の世界を目指す俳句において、むしろその視点を「誰でもなく且つ誰でもある人」へと振り切ったように思う。作品から己れを徹底排除することで、我々凡庸な人間が見て見ぬふりをしていた事実を眼前に突きつける。例えば、エログロ、戦争・差別、生と死…。

 こうした人間への距離感ゆえにか、「実感のある句」を詠むよう口酸っぱく言われてきた私たちにとって、彼女の俳句は「触るな危険」と言うべき句材に溢れている。目を背けたくなるような句も少なくはない。

ぐちよぐちよにふつとぶからだこぞことし

 一読、四散して人間としての形を失った無惨な大小の肉片を視覚に訴えてくる。人間はあまりにも脆い。一方、時はかたちを持たないが、「棒のごとく」強かに流れていく。

(さらに私たちは、ひらがなという文字があまりにも絶妙なバランスで成立していることを実感する。柔らかい曲線と楕円がそれぞれの間合いを以って描かれることで、我々は初めてそれを文字と認識できる。平仮名は書かれるや否や、そよ風に飛ばされ散らばってしまいそうなほどに不安定なのだ。
そしてこの句を声に出せば、入り混じった濁音・拗音・促音が、十七音目の歯茎摩擦音「し」に収束していく不思議…。)

 我々のように俳句に馴染んだ者たちは、目の前のものに対し、まず俳句ありきの取捨選択をしてしまう。一方、著者は短歌にも俳句にも通じ、そして『人類の午後』と同時に上梓された『星貌』でも見せるように、言葉に対して、そして精神に対して十分に自由だ。

 そう、『人類の午後』に託された彼女のメッセージに、すべての人間が耳を傾けるべきである。

 先に短歌と俳句を真反対のものであるかのように書いたが、だが、まさしく「貫く棒のごときもの」のように、あらゆるものはゆるやかに地続きである。『人類の午後』を読んで我らが問うべきは、「俳句とは何か?」ではなく、「俳句はどこまで行けるのか?」だ。

 彼女を追って、季何俳句を真似る者も多く現れるだろう。

 自由な精神の中で、17音の小舟とともに、我々はどこまでいけるだろうか。

 ※この文章は俳句誌「森の座」2022年2月号に掲載された文章を加筆修正したものです。


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