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近況③

↓前回


noteをはじめて、3ヶ月目に突入した。

思えばこの3ヶ月は、人生に残るレベルで大躍進の3ヶ月だった。
なぜって、ずっと好きなことを自分の意志で選択し続けられているから。
そんなの普通では?って人は多いのかもしれないけど、私にとってはこれ、本当にものすごい進歩だ。

好きなことができるようになったきっかけは、スマホ中毒、とりわけSNS中毒すぎて他のことが何もできない状態から脱したことだ。

脱スマホ達成の理由として一番大きいのは、スマホ等一切の電子機器をベッドへの持ち込み禁止にしたことだろう。

これまでは、平日朝ですら無駄に早く目が覚めてはベッドで4時間くらいスマホをいじっていたし、休日なんて平気で12時間くらいベッドで動画を見ていた。
しかもそれらは全くもって楽しくなく、やらなきゃいけないことを放置している罪悪感で死にそうだった。
当然に生活に支障が出ていて、寝食を忘れるのはもちろん、予定通りに動くことなど全くできない。やらなきゃいけないことに気持ちを圧迫され、時間があってもやりたいことすらできない。かと思えば、急に何かに過集中しちゃって時間が溶けてしまったり。
もうほんと、自身で自身を何1つコントロールできていない状態だった。

これだけ重症で、あらゆる策を試しても駄目だったのに、ベッドへの電子機器持ち込み禁止だけでここまで改善するとは思わなかった。
いや、禁止したことはあくまで大きめのトリガーであったというだけで、心境の変化によるところが大きいんだろうな。

noteをはじめたのだって、1月の頭に姉に連れられて、湯河原の読書ができる宿に行った時の体験がきっかけだ。
読書によってデジタルデトックスの喜びを、同じ宿でのインク作り&シーリングワックス体験によってやりたいことをやるワクワク感を久々に思い出すことができた。
これを契機に、帰りがけにnoteを書いてみたらめちゃくちゃ頭がすっきりして、やりたいことがはっきりした。全てはそこから始まったのだ。

↓初回投稿

スマホ中毒を脱してからは、本当に生活が変わった。
スマホ禁止にしたベッドでは寝ることに集中するようになり、目が覚めたら布団の中では退屈なので、さっと身体を起こしてトイレ行ったりお風呂はいったりご飯食べたり化粧したり会社に出発したりできるようになった。

全く嫌々ではなく、ちゃんとそれらがルーティンになり、生活を当たり前に回せるようになった(料理はまださっぱりできないけど)。

どれも今まではあまりに出来なさすぎて、一般人は皆超人なのかと思っていたけど、意外と回せることに気づいた(料理以外は)。
このルーティンを問題なく回し続けられることがいかに幸せか、身を持って実感している。

また、そんな生活の合間で、1時間程度の限られた中で漫画を読んだり音楽を聴いたりYouTubeを流したりすることなんかも結構楽しいことに気づいた。もちろん、スマホ中毒すぎて無限時間それしかやらず寝食を忘れることは全くなくなった。

こんな些細な日常から幸福を感じ続けられるものなのかと、私は初めて知った。これまで、生活を回すことはひたすら辛く苦しく、おまけに逃れられない地獄の作業だったのに。

あとは、自分の意志で触れる趣味が増えた。ここ数年は、昔からの趣味を惰性で続けたり受動的に人からのおすすめにつきあったりするのがほとんどで、新しい趣味なんて全然開拓できていなかったのに。

noteを書いたり、andymoriにハマったり、ギターにハマったり、ずっと修行だと思っていた読書を好んでできるようになったり(エッセイだけだけど)、企画している演奏会の準備が楽しくなってきたり、遊び感覚で勉強までしたりできるようになった。

何気なく興味を持った『くまのプーさん』を自主的に見始めちゃったりした。これまでアニメ鑑賞なんて惰性の連続で、見たくもないのに見続けちゃったり、逆に見たいのに見始められなかったりしたのに。完全に見たい分だけ、見たい時間に見られている。

冒頭のプーさんが、ただ歩いているだけなのにあまりにも幸せそうで、なんか観てるだけで不思議とめちゃくちゃ涙が出た。ヤバい奴かってくらい。

実は、作中のキャラクター達って、ADHD(プーさん)や自閉症(イーヨー)、強迫性障害(ラビット)や多動(ティガー)など、それぞれにちょっとした特性が当てはめられているんだそう。
でも、その特性によって明らかに周りに迷惑をかけていても、彼らはなんとも思っていなさそうだし、別に互いの特性を否定したりはしない。
それぞれが他人の目を気にせず、でもそれなりに仲良く楽しく過ごしている。こんなふうに、周りの目を気にしすぎず生きていいんだな、ただの日常からもこんなに幸せを感じていいんだな、ととても優しい気持ちになれた。
多分アメリカンキッズ達はこういうのを浴びて、我の強い(日本人的感覚では協調性はない)人間になっていくんだろうな。


話が逸れた。時を戻そう。
そんな訳で、最近はやりたいことを、やりたい分だけやれている。
今まで、『やりたい』が『やるべき』に変貌してしまっていて、最早やりたくなさすらあったのに。あんなに現状維持型で、やりたくないことから逃げすぎて18時間YouTube見続けたりしてたのに。
今や気がついたら全部やっている。当たり前に、何かをやるまでの障壁がほぼなくなった。不思議だ。

今までは、毎日9:00-22:00勤務の激務で、何をするにも時間がないと思っていた。
でもSNSに溶けていた時間がしっかり注げるので、意外と隙間時間は沢山あると気づいた。

やりたいことはまだまだある。
一番は、これまで本当に嫌で仕方なかった資格勉強。うちの会社は資格奨励金がたんまり出るので、取れば取るほどお得だけど、これがどうしてなかなか全然頑張れなかった。

私はこれまで、ただの座学だとぜんぜん吸収できず、資格勉強などテスト勉強の類は本当に嫌で嫌で仕方なかった。辛く苦しい戦いだと思っていた。
でも、旅行中に姉の指摘を受けて、それは自分にあっていないやり方をしていたからだと気づいた。

私には、実際の体験などを通して、実感を伴って初めて、学びの吸収効率が跳ね上がるという強めの特性があるのだ。
思えば、お寺は日常的に見まくっていたので仏教のマニアックな知識はいくらでも吸収できたし、聖歌隊で聖歌を歌いまくっていたのを契機にクラシックにのめり込んだりした。
旅行だって、当日までは調べるのが辛くて苦しくて仕方がないのに、実際に着いたその瞬間から、目で見て知って、その場で最高の旅行コースを組み立てることはめちゃくちゃ得意だった。
旅先では、そこで得るあらゆる情報を吸収することができた。住まう人々の様子やローカルネタ、地理、歴史、そこに根ざす文学などなど。それを現地で動きまくって、ガンガン吸収することにはなんの苦もない。というか勝手に情報が入ってきて、めちゃくちゃハイになる。あの瞬間って、他には代え難い喜びがあるんだよな。旅行中の協調性は低めなので、この喜びを得たいがためにわざわざ一人旅をしてたりする。
多分私、本当にフィールドワークとか向いているんだと思う。いつか文化人類学とか真面目に学びたいものだ。

また話がそれたけど、資格勉強も多分、ただ文言を缶詰で覚えるんじゃなくて、なんらか実際に経験として触れてハマるきっかけを作って、自身の生活と紐付けて、総合的に吸収していくのがあっていそうだ。そしたら、参考書だって喜んで読んでいられるようになるかもしれない。
宅建とかも、自身の業務での疑問とかに紐付けたり、もし自分だったら?を考えながら調べていき、体感として理解できている状態をめざすのが良さそう。

これを彼氏に伝えたら『あれっ、そんなことも分かってなかったのか』とか言われちょっと凹んだ。そういや彼、宿題一切やらないのに100点取るタイプだった。

いずれにせよ、人生を振り返っても、ここまで自分のメンタルが安定していて、常にやりたいことをやってワクワクしている期間なんてなかった気がする。

精神状態の安定感、充実感だけでいくと、暇だった高校時代のそれと一番近い気がする。あの頃はスマホも持ってなくて、内部進学で暇だから好きなこと出来て、人生の中では比較的内的に穏やかだった。
でも今は、仕事に趣味にひとり暮らしと、あの頃より遥かに複雑なことをやりながらこの状態を保っている。それに、明らかにあの頃より考え方とかも進歩している実感があるので、当時の方が優れていた!みたいなことを言う気はさらさらない。

だいたい、私の精神状態なんてほぼいつも沈んでいるのが当たり前だった。特に、大学入学以降の7年くらいはずっとだ。

私、なまじ平気そうに明るくしているのは得意だから、人生を通して毎日死にたいと悩み続けていたことなんて、割と親しい人ですら知らない人の方がほとんどだ。

本当に、自己否定ばかりしてきた人生だ。自分の言動に自信があったことなんてなかった。毎日毎日1人で反省会ばかりしていた。何をやっても人より劣っていて、スペックはピーキーすぎて、致命的に非常識故に迷惑ばかりかけている、と思っていた。私なんていない方がましなのに、周りが優しいから一緒にいてくれているだけだと思っていた。自分のことを好きだと言う人間がいれば、その人もたいがい物好きだな!とか極めて失礼なことを思っていた。自分で自分の自制なんてできた試しがなかった。いつもなんでもギリギリで、その度に後悔するのに、何度も同じことを繰り返し、何年経っても欠片も改善が見られなかった。すぐに何かに依存していた。あらゆるSNSや動画サイトの中毒になっていた。やらなきゃいけないことは無限にあるのに、それと向き合うのが辛すぎるあまり、SNSや動画ばかり観て逃げていた。その結果、本当にやりたいことは何もできなかった。自分の意見に自信がなく、人に流されてばかりいた。私さえいなければ、家庭は平和だったろうとか思っていた。 自分のセンスはいつも終わっていて、何をしても馬鹿にされた。私の選択はいつだって間違っていた。人が当たり前にできることは何もできなかった。ファッションはどんなに勉強しても常に変だし、あまりに挙動不審すぎてよく笑いの的になっていた。運動だってちょっと異常なくらいできなかった。何をやっても駄目だった。それもあって、逆に数学とか音楽とか、なまじできることがあるとめちゃくちゃイキってしまった。変に自己顕示欲が高くて、自慢しちゃったり、知ったかぶりしちゃったりする癖があった。そんなしょうもないところはまたみんなにイジられて、最悪嫌われたりして普通に傷ついていた。自分の謙虚じゃないところが大嫌いだった。人から嫌われている自分は死んだほうがマシなのに、生きていて申し訳ないと思っていた。目障りだと思われていることは分かっているのに、なんで死なずにのうのうと生き続けているんだろうと思っていた。常に自分のことが嫌いで、死にたいと思い続け、幸せにならないことで自分を罰そうと思っていた。

あー、、、だめだ。
こういう話をし始めるともう無限だ。私ってめちゃくちゃ明るくて、悩みなんて何1つないみたいに見えるらしいけど、自己肯定とは程遠い価値観でこれまで生きてきている。何1つ自分に肯定できる要素がなかった。これらは本当に、ほんの数ヶ月前までの話だ。
なんとか幸せに生きられるよう、色んな考え方を後天的に学んで、追いついているだけだ。

これを敢えて書き出したのは、多分今、私が人生の過渡期にいるんだろうなと思っているからだ。
きっと、私はこれからどんどん幸せを自ら掴みにいくようになる。ずっと眩しい存在だと思っていた、豊かな人生を歩み始めることだろう。
ただ、それによって、過去の苦しみへの解像度はどんどん下がってしまうだろうな、という危機感がある。
もちろん、今後も苦しみたいのに忘れたくない〜!とか言う理由では全くない。
当時の苦しみを忘れることで、本来助けられるはずだった人の助けになれない可能性があるからだ。

自己肯定感が低い人間の苦しみって、どこまで行っても本当に経験をしたことのある人にしかなかなか真に理解できないものだ。もうほんと、ずっとデフォルトで苦しくて、紛らわそうにもなかなか紛れなくて、1人になるとずっとネガティブで、何も出来なくなってしまって更に病む、、みたいな最悪のスパイラルだ。

自己肯定感高い人が日常のルーティンで毎日幸せを感じるように、自己肯定感低い人は辛い日常のルーティンで毎日地獄を味わっている。

今までは、私も辛かった分、おそらく自己肯定感が高かった人たちよりは、辛い人の支えになれていたんじゃないかなと思う。

でも、なまじ豊かな気持ちで生きられるようになると、辛い気持ちを抱えながらもなんとか生きている人を、何気ない一言で傷つけてしまうようになるかもしれない。
当然に配慮はするけど、死にたかった頃の気持ちはいよいよ忘れてしまうかもしれない。
だから、こうして書き留めておいて、後から思い出すトリガーにしておこうかなと思う。

少しでも誰かの苦しみに寄り添い、共に分かちあえる人間でありたい。

さて。近況がテーマなんだから、近況の話をちょっとしたいと思う。
andymoriのファーストアルバム、しばらく聴いてなかったけど、1週間半ぶりに聴きたくなって聴いてみたら、やっぱり最高だった。何回聴いても新たな発見がある。というか間空けると、初めて小山田壮平に出会ったときの感動を、また改めて新鮮に感じられて最高の気分になれることがわかった。太陽が破裂するまで歌ってくれ、小山田壮平。

実は2週間前には、最近あんまりandymoriの気分じゃないな、とか思って、しばらく距離を置いていた。
↓当時の記事

以前だったら、ハマっているものから気持ちが離れる恐怖心とかで無理に聴き続けていたかもしれない。でも、自分の直感を信じて距離を置いて本当によかった。今回みたいにふと聴きたくなった時に聴いてみたら、想像より遥かに最高の気分になれたからだ。
こういう直感って大事にしてナンボだな、と改めて思う。きっと大事にした分だけ、自分にとって良いものをどんどん摂取できるようになると思う。

あとは、、
さっきSNS中毒を脱した話をした気がするんだけど、そういや最近の私、結構なnote中毒なのでは...?
マジで一生書いてる。今だって現時点で5,400文字を突破しているらしい。我ながらえげつない頻度で更新している。いや、書くこと自体は、自身の意志でやっていることだし、時間のコントロールも出来ているので何ら問題はない。

ただ、、自分の作ったものって何度も見返しちゃう癖があって、なんかずっと読み返してる。色んな人に呼んでもらいたいあまり、マガジンに整理し、続き物の記事にはリンクを貼り、過去の記事を軽く添削する、などを繰り返している。
あと、noteでいいねがつくかつかないかをやたら気にして、アプリを開いたり閉じたりする。

あれ?あかんやん。
まあ、SNS中毒の時ほどの重症ぶりではないし、何よりこうしてnoteに書くことで冷静になれていたりもするから、きっとまだ大丈夫だ。
でもあんまり中毒になって日常に支障を来たすようになるのであれば、、少し考えたほうが良さそうだ。

まあ、今は問題ないし気楽に行こう。
今日はせっかくの祝日。よく休んでギター弾いて、明日に備えよう。

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