感動

noteとかいうツールを使うのは初めてなのだけど、もしかしたらこれは結構理想的な媒体かもしれない。

かれこれ10年来、スマホ中毒かつSNS中毒のきらいがあるのだけど、以前からずーっとこれを脱したいなと思っている。
ただでさえ普段から頭の中が情報でとっちらかって辛いのに、わざわざゴミのような情報を浴び続けるのはどう考えても悪習極まりない。

あとSNSってヤバいツールで、私なんかは常に脳内がネットを介して人とつながってるかのような感覚があって、正直ちょっと怖い。
どこぞの陰謀論者が『ワクチンうったら頭の中に5Gがー!』とか訳のわからんことをよくのたまっているけども、脳みそがインターネットに繋がってるかのような感覚は正直なんか分かる部分があるから我ながら危険だなと思う。たぶんこれは中毒症状によるものかなと思っている。

頭の中が5Gの高速ネットワーク回線に襲われて辛いときは、時折デジタルデトックスと称してスマホをなるべく遠ざける時間を作っている。
今日なんかはまさにそれで、本の虫である姉に連れられてきたのを良いことに、湯河原の読書をやたら推奨してくる某宿でひたすらスマホから離れた。読書は昔から全然出来ないのだけど、頭の中で音楽と無限の無駄な思考が爆音であばれてる状態からは脱却できた!なんという至福!

デジタルデトックスするとたいてい我に帰って心からやりたいことを探す過程に入るのだけど、今回行き着いた先がここ、noteだった。

位置づけとしてはSNS中毒をやめるための代替行為、という感じ。
私はSNS歴はや12年。Twitterをやめたと思ったら何かと理由をつけて再インストールし、ゴミのような情報に侵されて反省して、代替ツールとしてInstagramに興じるも、また程度の低い承認欲求を満たす自分に嫌気が差して、、みたいなことを繰り返して辟易していたところだったので、せめてもう少しマシな代替行為を、という意味でもnoteで適当に考えを吐き出すのはなかなかよさそう。

そういや元々高校時代には、お気に入りのノートに日記を書く習慣があったけど、いまは正直とても読めたものではない。
あれはまとまった文章を書くというよりは、散らかった思考やエンドレス再生される悩み、突発的に飛び出て来る単語をしっかり外に出し切って、まともに1つのことだけを考えられる状態に持っていくための儀式だった。

頭をスッキリさせる効果は抜群だったので、暇だった当時はほぼ毎日続けていたけども、しっかり1.5hくらいかかってしまうものだから、タイパがすごぶる悪くて大学に入ると途端に辛くなってきた。

紙に書く時間はとれないから、ハードルを下げるためにもiPhoneのメモ帳に書き記すようになったが、これがまぁなんともUIの微妙さもあってうまくいかない。何より紙に書きなぐる喜びが半減してしまっていた。
とはいえやらないよりはマシで、やっぱり悩みがあるときには言葉にして吐き出し、脳の容量に一気に余力がでてくる感覚がなかなか気持ちがよく、生きづらい日々を少しでもマシにするためにはやはり必要な過程だった。

社会人になって忙しいからってサボってたけど、やっぱり文章を書いて頭のゴミを吐くのはいいなぁと今思いながら書いている。文章を書くのが嫌にならない程度に続けていきたい。

なぜ結局ネット上のツールにたどり着いてしまったのか?SNSはやめてもnoteをわざわざ公開するんだから、結局は承認欲求の塊なんじゃないの?みたいなツッコミどころはあるけども、今日は核心に触れたい気分じゃないのでやめておこうと思う。

なんにせよ、『きちんと文章で自分の思考をアウトプットできるようになりたい!』というかねてからの目標に向けて文字に起こせば、時間を有効活用できるかも!と思っている。

なお現状、本当に頭を整理するための文章なので身近な人に見せられないなという気持ちで今は書いているけど、ゆくゆくはみんなに見せたいと葛藤する未来が見えなくもない。

なまじ身近に文章のうまい人間を持ってしまったばかりに、こんな書き物を見られようものならムキーッと添削されたりしそうで嫌だなぁとも思う。好きに書かせろという気持ちと、ちゃんとうまくなりたい気持ちが6:4くらい。

なんでこんなに文章書くのがうまくならなかったのだろう。
そういえば、起承転結の起の字もない、思い思いで好き勝手な作文を小1の時に書いたら、たまたま読んでくれた祖母にだいぶけちょんけちょんに言われ、原型をとどめないくらい添削されて相当凹んだのを思い出した。

それ以来、文章を書くたび祖母がゴリゴリ添削してくれるので、ありがたいとは思ってたんだけど、添削を食らわずすむような文章はちっとも書けるようになれず相当苦心した。

他方うちの姉は、めちゃくちゃな読書家かつ表彰されるほど綺麗な文章を書ける人だったので、比較してはコンプレックスを増幅させていた。姉も祖母も、添削の内容がかなり的確だから余計凹んだなぁ。

なるべく文章を書くことから逃げていたのだけど、長期休みになると作文の宿題が襲ってくる。これは本当に悪夢のようだった。

そもそも立派な感想なんて思いつきもしないんだから文章がまるで浮かんでこず、なんとか捻り出して書いては消しをくりかえすうちに原稿用紙が汚くなっていくので、新しい下書き用紙に書き写し、改めて書き出していこうにもやっぱりうまくまとまらず、書いた文章の前後を入れ替えが頻繁に発生するけどなんせ紙の上なので、矢印でパズルのように順番をぐちゃぐちゃ入れ替えるよう示すもののどんどん何がなんだか分からなくなり、さらに新しい下書き用紙に書き直し、、
清書にいたるまでに、下書きは2、3段階必要になるのが当たり前だった。長期休みの度苦痛で苦痛で泣きながら作文を書いていた。そんな時期は高校時代まで続いたっけか。
レポートを周りが授業中の1時間でチャチャッと適当に書きあげていくのに、私だけ仕上がらず持ち帰って、7時間かけて徹夜しても完成しなくて号泣したことすらあった。これは確か高2のとき。

今思えばマクロな文章構成を考えることが当時すごく苦手で、計画もなく、オチもない状態で書き進めて詰んでは辛くなっていたのだと思う。そりゃ書けないのは当たり前だ。なぜ気づかなかったんだろつ。

ただ、平均7時間もかかって書きあげる文章を妙に評価する先生が1人だけいて、どういう訳か全員の前で発表させられることもあった。あれのおかげで『私はすごぶる遅筆なだけで超下手くそと言う訳ではないのかもしれない!』なんて錯覚ができてよかった。
そういえばそのあたりから文章が徐々に書けるようになってきたので、もしかしたら自尊心の問題もあったのかもしれない。

私の周りは家族も友人も皆文学的素養に満ち溢れた人間たちばかりだったが故に、下手くそな作文というものをほぼ読んだことがないので、正直7時間かけて書いた私の文章に点数をつけたとき、自分がどの位置にいるのかは未だわからない。

就活期の自己分析なんかもまあ随分姉に添削していただいたし、今だって文法から何からきっと酷いものなのだろうと思う。この文章を姉や祖母が見たら失笑するのだろうか。悪文すぎて体調を崩したりされるのだろうか。

※彼女らの名誉のために補足するが、2人とも一般の人より遥かに善良と言えるほど善良な人間である。私の被害妄想によって悲しみが増幅しているだけの可能性はかなり高い。

先程マクロがどうのとかいう話をしたが、相変わらず私は最初から計画的に文章構成を考えて書くとかいう崇高なことができない。たいてい脱線する。今だってそうだ。というか私の生き方全般そうだ。20代後半にもなって超多動だし。
でもそのとっちらかった思考を文章にひたすら書き記していく過程自体は結構楽しいなと思っている。そうでなければ高校時代の日記も続いていない。当時だって、ひたすら外に文章を吐き出していくうちに、いつの間にか自分の中で結論とか文章のオチとかが浮かんでいることが増えていった。文字数制限も何もなく、美しく書こうという素晴らしい志もなく、ただ書きたいことを書けるというのはなかなか幸せな瞬間だなと今も思う。

幸いnoteとかいう環境は学校の宿題や業務上の課題のように強制されたテーマ設定やルールなどもないし、iPhoneのメモ帳での日記と違い書き心地もなかなか悪くない。あと、一応は世に放つ文章であるという認識があるので、最低限の体裁だけは整えて書いているつもりである。これはおそらく良い訓練になるのではないかなと思う。

あと、これは日記としての位置づけだけではなく自分の考えをまとめていく中で、自身を内省する過程にしていきたいなと思っている。

こんなことをわざわざしたいと思った理由として、最近読んだ窓ぎわのトットちゃんに影響を受けたのは大きい。
私は読書がものすごく苦手で2ページも読めずに寝落ちしてしまうのだが、映画化の影響で手に取ったトットちゃんだけはめちゃくちゃサラサラと読めた。失礼ながらトットちゃんには私と同じ多動癖があるように思えて、感情移入しやすくてよかった。特に校長先生に『話したいことぜーんぶ話していいよ!』と言われて、嬉しすぎて4時間話を聞いてもらった思い出のシーンなんか、あぁこんな人がいたら最高だな、素敵なエピソードだなぁと軽く涙してしまった。

そういえば、人の人生をなぞって思いを馳せ、その過程で自分と比較し、自身を省みる過程は昔から好きだった。今までは会話の中でそれを楽しんでいたが、もしかしたら私はエッセイとかを読んでみるとなかなか楽しめるのかもしれない、という発見をした。

早速今日もオードリー若林さんのエッセイを買ってみたけど、比較的読みやすくて楽しいなとと思っている。テレビでしか見えていなかった人の内面を垣間見ることができてなんとも面白い。
そういや父親が昔の思い出をエッセイ風に書いたものがすごく好きで、何度も続編を切望したことがあったな。実家にしまってあるはずで、今もどうにかもう一度読みたいなと思う。

というわけで、私はエッセイが書いてみたいのかもしれないなと思っている。
もちろん今回の文章の羅列がエッセイの体裁になっている自信はない。私はまるで読書をしないのもあって、文学的な素養もからきしだから、今読んでいる人には嘲笑されているかもしれない。

でも、それなりに人と接する中で話を楽しんでもらえた成功体験があるから、今まで世に放つ機会のなかった思考その他諸々を文章で記して人に喜ばせられるようになったらもっと嬉しいだろうな、なんていう野望ならある。

そんな訳なので、わざわざ私の文章を読みたいと思ってくれる人がでてきたらちょっと嬉しいなわくらいのモチベーションで適当に気の赴くままに投稿していきたいなと思う。

めちゃくちゃ長くなってしまったな。でも添削すると辛くなるからしないぞ。ライブ感抜群の文章ということで大目に見てもらえるととても嬉しく思う。

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