andymoriにハマりすぎる2

前回↓


相変わらずandymoriを聴きまくっている。この記事、まさか続き物にするつもりはなかったのに、思わず書き始めてしまうくらいにはハマっている。
今は2ndアルバム『ファンファーレと熱狂』に夢中だ。1stアルバムの時と同様、狂ったようにエンドレスリピートしている。最初聴いたとき、1stアルバムほどは刺さらないかな、とか思っていたけど、スルメ曲と言うやつなのか、聴けば聴くほど好きになっていく。全曲歌詞覚えちゃうくらい聴くのなんて本当に珍しい。

andymoriにハマってまだ1週間強なのに、既に影響を受けて思わず行動にうつしたことが3つもある。

①ライブに申し込む
自主的に小山田壮平のライブ抽選に申し込んでしまった。実は今まで、ただの一度も自主的に邦楽のライブを申し込んだことがなかった。
(ジャズのライブこそちょくちょく行っているが)

当落は2/16らしい。これが楽しみで仕方ない。今までは椎名林檎でもペトロールズでもその他フェスでも、友人に誘われてようやく行くものばかりだった。中村佳穂だけは確かに自分で予約して1人で見に行ったが、これも友人からの熱烈な推奨を受けてのことだ。どんなに好きなアーティストでも、なんか自主的にライブに行くのはちょっと気が引けるのよな。

でも今回は違う。自然と、生きた小山田壮平が演奏している姿をみたくなった。andymoriのライブ映像もひと通りさらった(ALやソロ活動についてはまだ)が、やっぱり生で見るライブが良い。ちなみに、邦楽のバンドをちゃんとMV含め動画までしっかり追い切ることも実は初めてだ。
なんにせよ、生で見られるときにしっかり目に焼き付けておきたいと心から思う。

我ながら理由は謎。顔が良いから、とか別にそういうわけでもない(ネットで顔が良いとされているのを見て、初めて気がついたほど)。
なんとなく演奏している姿が胸を打つから、それ以上でもそれ以下でもない。

②ギターを再開する
andymoriにハマるきっかけとなった、everything is my guitarの影響で、部屋の隅で埃をかぶってたギターを練習し始めてしまった。ギターを買ってはや1年、正直あんまりギター好きじゃないのかなって思うレベルでやる気がしなかった。アジカンや米津玄師の好きなアルバムについては、公式バンドスコアも買ってみたけど、軽く眺めただけでほとんど練習していない。
今まで、演奏を聴くのはそれなりに好きでも、楽器の演奏をしたい、とはイマイチ思えない自分がいた。なんなら、楽器全般『演奏できたら格好いいし、楽器できる奴だと思われたいから』みたいな、めちゃくちゃ不順な動機でやってる節すらある。(こんなこと誰にも暴露したことないんだけどな)
一応ベースでジャズの演奏がぼちぼち続けられているのは、どちらかというとコミュニケーションの一環としてのセッションが楽しかったからだ。アドリブや掛け合いによって偶発的に皆で音楽を作り出していく楽しさは、言葉を用いた複数人によるコミュニケーションのそれとかなり似ていると思う。言葉の代理ツールとしての音楽、という感じだ。

でも、1人での楽器演奏は正直そんなに楽しいと思ったことがなかった。下手くそで萎えるし。鼻歌や口笛は、身一つでいつでもできるし、1人でも楽しいんだけどな。

そんな中、今回これだけ素直に楽器が演奏したくなったことに驚いた。それも、誰かに聴かせて自慢したい!とか、誰かと演奏したい!とかではなく、完全に自分のために、だ。

1人で演奏して、弾き語りなんかできたら最高じゃないかと思う。こんなにandymoriの曲を弾きたい理由はこれまたよく分からない。スリーピースバンド故のシンプルさにも惹かれたのかもしれないが、これまでだって色々惹かれるバンドはあったはずだ。謎だ、、

とりあえず、まずは一番簡単そうな『僕が白人だったら』を練習している。今まではギターの練習なんて何ら楽しくなかったのに、これが今では職場でも早く演奏したくてウズウズしている有様だ。
色々練習して、はやく『ベンガルトラとウィスキー』とか弾けるようになりたい。
ついでにギターの知識をつけて、いつかはちゃんとDTMに活かせたら嬉しいな。

③小山田咲子さんの本をポチる
先程思わずポチってしまった。明日届くらしい。この本というのは、小山田壮平のお姉さんによるブログを書籍化した『えいやっ! と飛び出すあの一瞬を愛してる』という本だ。
これがなんとめちゃくちゃな名著らしく、ちょっと異常なくらい評価も高い。人生で何度も読み返したくなる奇跡みたいな本だとか何とか。こちらの書籍からandymoriに到達される方もいらっしゃるほどだそう。

小山田壮平に多大な影響を与えたという彼女は、24歳の若さで交通事故死されている。

andymoriの曲中でも、彼女の存在やその死についても度々言及されているが、そうした曲や詞の数々が私の心をめちゃくちゃに揺さぶってくる。

どうしたって時は待ってくれないし、失われたものが戻ってくることなどない。そんな悲しみが、私の持つそれに似ている気がする。

私は幼少期に母を亡くしているが、肉親の死というのは、それはもう猛烈に周囲の人生や価値観に影響を及ぼしてくる。
この感覚は、実際に身近な人の死を経験した人にしか絶対に分からないと思う。これだけ、死が日常から異常に隔絶された世の中に生きていれば尚更だ。否が応でも、そこに本来いるはずの人がもういない事実を、私達関係者だけがこれでもかと認識させられ続ける。
もし彼女が生きていたら。もし今までと変わらず、彼女がそこにいたら。彼女と過ごした幸せな日々が、なぜか涙なしには語れないものになり、どうしたって別の意味を持ってくる。そこに彼女がいないという事実が、家族での生活に、確実に影を落とす。友人達が当たり前に享受している、すぐそこに母のいる暮らしができない事実を日々まざまざと実感する。

もちろん私は決して不幸ではなかったし、周囲に支えられてありがたくここまで生きてこられたけれども、不可逆な生と死というものを意識せずにはいられなくない、そんな人生を送ってきた。

andymoriの音楽を聴いていると、なんだか勝手に妙な親近感を覚えてしまう。これが私の大いなる勘違いであれば本当に恥ずかしいけど、でもそうではないという謎の確信がある。

そんな中見つけたのがこの本。
生前の小山田咲子さんの考えを知る、貴重な手がかりだ。手がかりがあるというのは本当に素晴らしいことだと思う。
私は母を知る手がかりが少なすぎて、自身の限られた記憶と、周囲から少しだけ耳にする数少ない思い出、あとは残されたビデオや写真、母子手帳などの記録類に頼り、今でも母を知ろうと日々躍起になっている。皆、あまり掘り起こすと悲しむから多くは求めないようにしているけど、正直、もう少し母と長く過ごすことのできた家族達が羨ましくて仕方がない。

なぜこうも母を知りたいのか自分でもよく分からないけど、それでも、懸命に30年強の期間を生き、私を大切にしてくれた母を思い、自身を重ねずにはいられない。

多分、あらゆる人々の人生を知るべく日々大勢の他人と関わりまくったり、エッセイにハマったりするのも、
他人の性格や思考回路の解像度を上げることで、母がどういった考えを持ち、どんな思いで生きていたのか、少しでも知りたいから、というのは間違いなく大きいと思う。

もし、1つだけ願いが叶うのならば、私は生きた母に会って、存分に対話がしてみたい。
当然、それは叶わないから、心の中に母を置き、日々想像の範疇で対話を試みている。でも残念ながら、どんなに私が悩んでも、仮に相談した場合に母がどんな回答をしてくれるのか、私には想像もつかない。私は母の人生のうち三分の二以上の時間を生きてきてしまったし、なんなら母が姉を産んだ歳とほぼ変わらないところまで来てしまったが、相変わらず私の中にいる母はぼやけたままだ。

だから、こんなに本人の考えが詰まった書籍があるというのはとても羨ましいな、なんて大変失礼ながら思ってしまう。
『この本に対する印象は「本」というより「人」』なんてレビューを見かけたから尚更だ。そんなこと言われたら余計気になっちゃうじゃんか。。

小山田壮平さんがこのお姉さんからどんな影響を受け、何を思っていたのか。私が勝手に『小山田壮平さんはお姉さんの影響を多分に受けている』と思い込んでしまっているだけなのか否か、この本を読むことで少しは垣間見られるかもしれない。

まだ読んでもないのに、読書後みたいな長文レビューをしてしまった。まあ、それだけ楽しみってことだ。
これだけ何かから影響を受けるのは久しぶり。このまま、『人生を変える出会い』くらいまで昇華されたらいいな。

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