レッテル張りとかカテゴライズとか

先日書いていたとおり、小山田壮平さんのライブに抽選で申し込んでいたが、無事に当選した!
↓先日書いたやつ

いやもう、めちゃくちゃ嬉しい。自分の意志で申し込んで当選するのも初めてなので、なおのことかも。

残念ながらコンビニ振込にしてしまったので、忘れず振り込まないと。この手の支払いの類はどうにも面倒くさくてギリギリまで放置しがち。気をつけよう。


※後日追記
無事に振込忘れました。改めて購入はできたけど、ホンマそういうとこやぞ私。


あと、待ちに待った小山田咲子さんの『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』が届いた。もともと読書がかなり苦手で、精神修行だと思って挑んでは挫折しがちな私だが、これまた珍しく自主的に止まらず読み進められている。

ここ2ヶ月ほどで、電子書籍とはいえ黒柳徹子の名作『窓際のトットちゃん』や、オードリー若林のエッセイを読み切ったことで、だんだん長文を読むことへの抵抗感が薄れつつある気がする。
紙の本を読むとすぐに寝てしまう悩みは相変わらずだが、こんなふうに楽しく読み進められるのは嬉しい限りだ。

今回読んでいる本は、小山田咲子さんの2002年〜2005年のブログをベースにまとめられている。小山田咲子さんは1981年生まれなので、大学3年生の時点からスタートする。
本人がご存命であれば今頃42歳を迎えていらっしゃるところだった。なんだか、読めど読めど亡くなっていることが信じられていない、、

というか、小山田さんの生きる時代観というか、なんとなく私の中でピンときていない部分がある。
1980年代前半生まれの人って、ほとんど私の身近にいないので、あんまり彼女が前提にもっている知識について想像がつかないのだ。幼少期から学生時代にかけて流行ってたものとか、歴史に残る事件とか、見てたニュースとか、、その捉え方はまるで私の知る人たちと違うだろう。
2002〜2005年はギリギリ私も意識がある時期だが、かたや大学生、かたや幼稚園児なので、その時代に目にしていた情報の質が違うのは当然だろう。

私は90年代後半生まれの20代だし、親世代は60年代生まれ(50代)、祖父母世代なんか30〜40年代生まれの80代、ギリ戦前生まれのみなさんだ。いい感じにぜんぜん被らない。

それに、80年代生まれといえば超絶就職難の世代。バブル絶世を味わい尽くした私の親世代とも決定的な断絶がある。
流行り廃りも違えば、ポケベルやケータイなどの電子機器の出てきた時の年齢なども違うので、世代間で持っている常識にかなり差があるのではないかと思う。
就職難が過ぎたのか、私の会社だって70〜80年代生まれの中堅層がすこーんと抜けたようにいない。世の中あるあるだと思う。
この世代はいったいどこに行ってしまったのだろう。

そんな訳で、小山田さんへの感情移入がしにくく、読み進めるのがちょっと大変だったりする。1人でも身近に80年代生まれの人がいれば、ぜんぜんもっと感情移入しやすかっただろうに。

こんなこと考えてるうちに、
私って、なんでも属性でレッテル張りがちだよな、と改めて思う。最近特に顕著だ。出身、年齢、好きなもの、、etc.

確か、昔読んだサン=テグジュペリの『星の王子さま』では、大人ってどうしてこうも、なんでも数字で人を定義したがるんだろう、、みたいなことを書いてあったのを思い出す。
これを読んだ小学生の時点で、私は既に人を数字で定義する人間だった。あの作品の登場人物からしたら、私は典型的なつまらない人間かもしれない。

弁解させてほしい。人って、どうしようもなく膨大な情報量をまとっていて、そのままではとても掴みどころがない。
何かその人を端的に表す情報があるだけで、その人のことを認識する手立てになるではないか。
ただでさえ私は人を認知することが苦手だ。結構話し込んだ人であっても、10回くらいあわないと顔すら覚えられず、めちゃくちゃ失礼な人違いを繰り返しがちだ。レッテル張りと言うと言葉は悪いが、沢山の人間を認識し、親交を深めるにあたってこうしたカテゴリ分けはとても有効だと思う。おかげで、膨大な人間達との初めての出会いを人一倍楽しめているのは事実だ。

うーん。こういう考え方自体が星の王子さま達からすると気に食わないのかも。
そういや、オードリー若林も、あんまり人を世代とかでカテゴライズするのは好きじゃないと言っていた。世代間ギャップ、とかいうけど結局人によるじゃん?みたいな論調だった気がする。
偏見で人を括るのは簡単だけど、人ってそんな簡単に括れるほど単純じゃない。そんな言い分はよく分かるし、カテゴライズによって見落とすものが沢山あるのも分かるんだけど、、なかなかやめられない。
なんとなく、人間関係を築くことに繊細な人ほど、雑にカテゴライズせず、ちゃんと付き合うことに決めたひとりひとりをしっかり見ている気がする。

私ときたら、雑に友人を増やしては、その人を属性で分類して、なんとなく分かった気になることを繰り返している。人間関係に限らない。旅先の土地柄、歴史、地形だってそう。
こういうレッテル張りは、私の憧れるフィールドワークの考え方から最も遠いはずなのになぁ。

そういや、合唱でお世話になっている恩師からも、この点について指摘を受けたことがある。
分からないことが怖くて仕方ないんだね、分かった気になるなよ、と言われる。
いやほんとそう。ていうか、わけ分からない状態で平気でいられることの方がすごくないか?レッテル張りしないと人一倍わけ分からない混沌しか認識できないが故かも。周りはもう少し、分かろうとしなくてもフワッと世の中を認識できているように見える。

その恩師が私に提示した解決策は、『分かろうとせず、なんとなく思う、に留めること』というものだった。それで十分らしい。なぜそれで十分かはそのうち分かるそう。これも分かろうとしちゃいけないらしい。くーーもどかしい。

この話を受けて、場合によっては分からないなり受け流すようになった。それが後から不思議と生きてくる、、という経験も少なからずある。
でもカテゴリ分けによる喜びもある程度知ってしまっているので、そう簡単にはスッパリやめたいとは思えない。悪いことしてる気もしない。ただ、星の王子さまとか恩師とか、大切な人たちの意見とかを思い出して胸がチクリと痛む。
どこかで痛い目みたら変わるのかな。

とりあえず、こんなことは考えても無駄そうなので
ぜんぜん馴染みのない世代で、ぜんぜん馴染みのない時代を生きた小山田咲子さんの本と向き合ってみようと思う。

↓後日書いた感想

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