私の心は私だけのものだからよ
「人間は摂取した言葉からしか言葉を選んで話すことができない」。
昔、SNSで見つけたこの言葉を今でも覚えています。
今の私を作っているのは私がこれまで摂取して来た言葉であり、つまりは読んで来た本や漫画の中の台詞、そして出会って来た人たちとの会話です。
私が紡げる言葉はどうあがいても私の中にあるものだけ。言葉とは、私の人生の証明だと思っています。
今日はそんな、私が持っている言葉に影響を与えてくれた漫画を紹介します。
津田雅美さんの『彼氏彼女の事情』(1996~2005年 白泉社『LaLa』連載)です。アニメ化もされた人気作品なので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
幼い頃から詩的な言葉選びをしている作品が好きで、この作品はまさに誌的少女漫画の真骨頂だと思っています(『僕等がいた』も捨てがたい…)。
作画の美しさはさることながら、ストーリーの重厚さや壮大さ、魅力的なキャラクターの描かれ方など、どこを切り取ってもすてきな作品です。
とはいえ、先に述べたように『彼氏彼女の事情』の中で最も秀でているのは、言葉の美しさです。
強い説得力を持った、胸を貫く鋭い言葉たち。どこか突き放しているようにも聞こえるけれど、優しく、繊細で、温かいのです。
連載当時、この作品の名台詞集が『LaLa』の応募者全員サービスで刊行されていたらしく、あまりの欲しさにメルカリで購入しました。
わたしが好きな文章とはなんだろう。そう考えたとき、導き出した答えのひとつが「自分の力では言葉にできなかったものや感情を言葉にしてくれる文章」でした。
私たちはまだ名前のないものに名前をつけたくて、見たことないものを見てみたくて、面白いものを見たり、読んだりすることをやめられない。
この作品はまさにそんな、自分の力では表現できなかった言葉や世界観で溢れていました。
読むたび、自分の中にある曖昧だった感情や物事が定義づけられていくみたいで、読んでいて気持ちが良かった。私たちはこういう瞬間のために本や漫画を読むんだなあ、と思えて嬉しくなりました。
今日はそんな『彼氏彼女の事情』を、素敵な台詞にスポットを当てて紹介していきます。
台詞にまつわるエピソードまでをお話すると長くなってしまうので、そこは省きながら書かせていただきます。
「私の心は私だけのものだからよ」
これは、主人公・雪野の友人、真秀の台詞です。個人的にはこれが一番好きな台詞でした。
真秀は12歳年上の貴史という歯科医師の男性に恋をします。アプローチをしていると「君は年上に幻想を持っているだけだ。俺ならこのつまんない場所から連れ出してくれそうだと思って好意を寄せているなら、そういうのはやめてくれ」と言われ、突き放されてしまいます。その時、真秀が貴史に放ったのがこの言葉でした。
J-POPの歌詞で「私の心はあなたのもの」みたいなのを度々耳にしますが、私はそれがあまり好きではありません。
現実はそう上手くいかないのかもしれないけれど、人は恋愛をすることで強くなれるのが理想なんじゃないかと思っています。
だからこそ、喜んだり悲しんだりすることを、少しでも誰かに任せたりしてはいけない。そうしないといつか、誰かにもたれかかっていなければ、生きていけなくなってしまうような気がするんです。
そんな私の気持ちを代弁してくれたのが、彼女の台詞でした。
遠回しにふられたり、遠ざけられたから泣いたんじゃない。彼から、自分ひとりでは恋をすることもできないと思われていたことが悔しい。
そういう強くて弱い、真秀の涙が貴史の心を動かし、そして私たち読者の心も強く揺さぶったのではないかと思います。
「わたし 好きになるって その逆のことかもしれないって思うんだよ」
これは、主人公・雪野の妹、花野の台詞。この作品のヒーローである有馬に最初に告白をされた時、雪野は有馬をふりました。
その後、時間を経て有馬に好意を抱くようになり、雪野は改めてこちらから彼に告白をしようと試みるのですが、傷付くのが恐くて逃げてしまいます。
そんな逃げている自分を省みて、自己嫌悪で落ち込んでいる雪野に対して花野がかけたのがこの言葉でした。
「好き」とは言葉にできない感覚だ、みたいな意識を、どこかで植え付けられて生きてきたような気がします。
むしろ定義することの方が無粋であるという風潮もあって、その感情について深く考えることをさぼって来てしまいました。
だからこの台詞を読んだ時、あまりの衝撃にしばらく次のページへ進むことができませんでした。自分の心よりも、相手の心の方が大切になる瞬間があって、それを恋と呼ぶ。どんな恋愛経験者の言葉よりも、恋って素敵だなあと思えた台詞でした。
これぞ漫画の醍醐味って感じがしますね。漫画には、辞書には載っていない言葉の意味づけが沢山詰まっているのです。
「だから 心を”奪われる”っていうの」
こちらは再び、真秀の台詞です。夏休みの間、有馬と全然会えないのが寂しくてダメダメになってしまう自分が嫌だ、有馬はちゃんとやるべきことをやっているのに!と弱音をこぼす雪野に対して、真秀がかけたもの。
「カッコつけてうまくやってるうちはまだ本当じゃない」という台詞の後に、この言葉が続きます。
これまで、恋人や好きな人ができるとブルーな気持ちから抜け出せなくなったり、何をやってもダメになってしまう友人たちの姿をたくさん見てきました。
恋をすること以外何もやる気が起きなくなって、いつも通りの生き方がわからなくなったりして、そんな自分が嫌になる、なんてことはきっと、当たり前じゃないようで当たり前のことなんだと思います。
この台詞は恋をすると、どうしたって情けなくなってしまう私たちを許してくれるものでした。
うまくやれる恋愛なんて、本物じゃない。思う存分、心を揺さぶられて、バランスなんて取れなくなってしまえばいい。全力で恋をしている姿ってきっと、思い描いているよりもずっと綺麗なものではないのです。
読んでいると、胸が痛くてたまらなくなるからこの作品が好きです。その感覚を最も表しているのがこの台詞だと思います。
それでは最後に、今までとは少し違う味の台詞を紹介します。これは刺さる人もいれば、「どういうこと?」と感じる人もいるかもしれません。
せっかくなので今日は、この台詞を読んで自分がずっと感じていたことを、他の作品の個人的な解釈を交えながら伝えたいと思います。
「僕の神」
これは物語の中でも佳境となる場面で使われた、大分シビアなシーンでの有馬の台詞です。
父親に捨てられ、母親から虐待を受けて育ったという暗い過去を持つ有馬は、ずっとそのことを雪野に打ち明けられずにいました。
ある日、彼は母親との再会をきっかけに、閉じ込めていた記憶とその時の苦しみを呼び覚ましてしまいます。その時、悶え苦しむ彼が願うように、心の中で唱えたのがこの台詞でした。
この言葉を初めて見た時、思い浮かんだものがありました。それは、米津玄師さんの『Lemon』のMVです。
私はこのMVを初めて見た時、「愛や恋って、宗教みたいなものだなあ」と思いました。
心から愛する人や恋焦がれる人に出会った時、私達の前にはもう、論理や理性なんてものは意味を為さなくなる。愛する人だけが正義であり、絶対であり、それはまるで神様のような存在にも思えるのです。
そんな経験がある人が、きっと私以外にもいるはず。このMVには教会の中で宗教めいたダンスをするシーンがありますが、その姿がまるで神、つまり愛する人に捧げる信仰の儀式のように見えました。
「今でもあなたは私の光」という歌詞も、どこか愛するものに縋っているようなイメージがあります。
ネットで考察を調べてみたところ、この歌は亡くなった恋人に向けて歌われたもので、教会のダンスシーンはレクイエムとして描かれているのではないか、というものを見つけました。
私は米津玄師さんやこの曲に関する知識がほとんどないので、恐らくそちらの考察が正しいのだと思います。ただ私は、この曲から「愛は宗教だ」というメッセージが感じられて仕方ないのです。
『彼氏彼女の事情』という作品の中で使われた「僕の神」という台詞は、『Lemon』のMVに通じるものがあると思っています。
有馬は、雪野という愛する人の存在に縋り、神として自分の中で崇めていた。それは彼を脆く、弱く、愚かにしてしまう行為であり、それと同時に最も人間らしい恋愛のかたちだったのではないかな、と感じます。
そんな彼が、少女漫画ではかなり長めな21巻分の物語を経て、どのように救われていくのか。ぜひ原作を読んで見届けて欲しいです。
本当はもっと紹介したい台詞があるのですが、全部紹介していたら卒業論文レベルで長くなってしまうのでここらへんで我慢しておきます。
ちょっと古めの作品ですが、色あせることなく私の心に焼き付いている作品のひとつです。『彼氏彼女の事情』という本当に素晴らしい作品に出会えて本当に良かった。この記事を読んで、少しでも興味を持って頂けたら幸いです。
それでは結びに、この作品の最後の台詞を書き置いて終わりにしたい思います。
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