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高三の時に書いた写ルンですのレビュー

そういえば、あと半年で高校生活は終わるらしい。
パンデミックというか、ただの世間体によって潰されていった数々の学校行事の死体が、その事実を裏付けるように、教室の隅で積み重なっていた。
そんな青春もクソもない現実から目を背けようと、インターネットを開けば、俺と同じく高校生ブランドで一発当てようとする同年代がいくらでも目に付く。

彼らは同じようなしたり顔で「どう?これがエモエモな青春ですよ?」と、
制服少女の逆光ポートレートだとか、流行りのJpopの一節を引用した青色の写真をアップロードすることで、やれ天才高校生だ、写真家だともてはやされていた。

それがどうにも気に食わず、
彼らへの嫉妬で狂いそうになる頭を抑え、起動して間も無い携帯の電源を落とすことにした。

嫉妬していると言ったが、
俺は彼らのような青くてエモい写真よりも、遥かにマシな写真が撮れる自信がある。
これは自惚れだと思ってもらって構わない。

自分で言うのも滑稽だが、
俺が撮ったこの高校生活の写真は、あまりに自然で見たままの情景に近いのだ。
そう見える理屈は至極簡単で、俺は左目で写真を撮ることができるからだ。
この能力が文字通り身に付いたのは、確か高校一年生の頃、
当時の写真を見ると、まだこの能力に使い慣れてない様子が画にも如実に現れている。
しかし今となっては撮影も慣れたもので、軽く息を吸って、勢いよく吐き出すと同時に瞼を閉じれば写真が撮れている。

この能力が身についてからは、所謂青春フォトグラフみたいなものを撮っても、わざとらしくない写真になっている事がとても嬉しかった。
そんな喜びを噛み締め、高校三年生の今まで写真を撮り続けている。ある時は自転車に乗りながら、ある時は授業中、重くて目立つカメラを使わないだけで、俺の写真はどんどん自由に、どんどん自然になっていった。

素晴らしく愛おしい写真が
日を追う事に増えていったが、
これをインターネットに儚げな言葉とともに載せてしまえば、俺が揶揄する青春フォトグラファーと同じような人間に成り果ててしまうのではないか。という恐怖が、俺の頭の中で頻繁にチラつくようになった。
何度も下書きに「高校生がフィルムカメラで撮った写真」や「フィルムで撮る青春がエモすぎる」と、高校生写真家が呪詛のように吐く言葉を書いていた。
いくら写真が自然でわざとらしくないからと言って、こんな風に世に出してしまえば、
俺はもう一人前の青春フォトグラファーになってしまう。
ストレス起因で左腕に出た蕁麻疹を掻きむしる、赤くなった皮膚から染み出てくる鮮血を見て、#病み #世界観 という活字が脳によぎった。
「あ、もうダメだ」
発声に至ったかすら分からない独り言は、骨伝導に乗って簡単に脳の奥まで到達した。
同時に大きく振りかぶっていた右腕は、取り返しのつかない速度で教室の床へ向かい、
直後、プラスチックが転がる軽快な音が教室全体に反響した。

廊下まで転がった既視感のある四角を目撃して、
やっと1つの事実に気が付く。
俺が左目で撮っていると思っていた写真は、たった今床に投げつけられたあのカメラで撮られたものだったと。

いじょう、写ルンですのレビューでした!

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