ここから見える世界は――国家間の軍事的対立を乗り越えていく社会観のために
人工衛星から地表を俯瞰すると、それはおおむね海の藍色と雪や氷の白、樹々の緑と砂漠の薄い橙色に見える。しかしさらに観察するとほのかに紫がかった灰色が神経細胞のように局所局所を覆っている。それは都市の色だ。地球上において都市は一つの地層をなす。だから人間は、地球の歴史で最も新しい時代に出現した、地層を作る習性を持った生き物と言えなくない。
習性。そう言うと、違う、都市は人の意志によって作りあげられたのだという反論があるだろうか。けれどそれなら誰が望んで都市を今日のありかたにしたのだろう。 誰が望んで都市の存亡を核軍事力に委ね続けているのだろう。やはりそれはどこまでいっても「人の意志によって」と言い切ることはできないのだ。
平和を望む素朴な生活者が戦争に巻き込まれる。そうした事態を「なぜ社会はそのようになってしまうのか」という問いに踏みとどまって洞察していくとき、やがてそこには、人が努力して生み出したものが自らのもとに刃となって戻ってくる仕組みが浮かびあがる。
ぼくたちは生活するためや、何らかの望みを実現しようとして仕事をする。その対価としての収入を得た後に、働いた成果はぼくたちの手を離れてどこへと行くのだろう。生み出された鉄は、知らない場所で地雷に加工されることになるのかもしれない。作られたプログラムは巡航ミサイルの誘導に関わることになるのかもしれない。一人の科学者や技術者がいかに平和を望んでいたとしても、研究成果が兵器へと転用され、より「高性能な」兵器をつくることに用いられるのは避けられない。
先月末には、GPIFによって運用される年金の一部が、クラスター爆弾を製造する企業に投資されていることが報じられた。日本のメガバンクが核兵器に関与する企業へと資金を提供していたことは、すでにICANとPAXの合同レポートで明らかにされている。なした仕事や稼いだお金、そして払った年金が、自分の目の届かない所でどす黒いものに飲み込まれる。そして、やがて人を傷つけたり自由を奪う刃として人々のもとに降りかかってくる。今の社会を注意深く見渡してみるなら、この刃の仕組みがいたるところに潜んでいることに気づくだろう。
働いたり、年金を払ったり、銀行にお金を預けたりしながら、普通の生活者はこの矛盾した仕組みの中にとらわれて暮らしている。そうしたぼくたちには無力感がへばりついていて、社会はおのずから不気味に感じられる。政府や企業やマスコミが、いかにこの社会を信頼できる温かいもののように描き出すとしても、一人一人は心のどこかで悟ってしまうわけだ。この社会は個人を置き去りにしたものであり、個人の望みとはかけ離れた危ういもののもとにうごめいていることを。それは一見して明るく賑やかなものだけれど、一人一人は孤独で暗く、虚無をかかえて生きざるを得ないことを。
明るさというならば、それはむしろ人から剥がれてひとりでに動いているように見えなくない。電車でうつむいている人たちを中吊り広告が見下ろして笑っている。家では居間のテレビが饒舌にしゃべっている。しかし他方で家族や同僚、友達の関係はより希薄に、不穏になる。感性もまた置き去りだ。監視カメラの眼光が鋭くなるほど、疲れきった人たちの瞳にうつる景色は無感動になり苦しく霞んでいく。そしてむしろ社会から隔絶した自然界やフィクションに触れる時に自分の心が回復するように感じられる。多かれ少なかれ、こうしたことはほとんどの人たちに思い当たる節があるのではないだろうか。
なぜ社会はそのようになってしまうのだろう。生活するためには社会のなかで仕事をしなければならないのに、そうすることで自分の体や人格や、言葉にできない何か大切なものが損なわれていくように感じられるのだとしたら、それはこの矛盾した仕組みにとらわれていることの証なのだ。屈辱の仕組みだ。そしてこの事実を屈辱と感じない人たちにもまた、等しく刃は向かってくる。
こうしたことは、実は「なぜ望まない戦争が起こるのか」「どうしたら戦争は止まるのか」という問いと切り離せない関係を持っている。兵器を作るのも戦闘を担うのも結局は人であるように、軍事力もまた、一人一人のなすことがどす黒く変質した刃にほかならないのだから。
この刃について、別の角度から検討を試みよう。先のような説明に触れると、いくらかの人は、資本家の意図こそがその仕組みを成り立たせていると考えるかもしれない。また、資本家に奉仕する政治家や、軍産複合体に目を向ける人もいるのかもしれない。そうしたことにきちんと回答するためには機会を改めて歴史を語る必要があるけれども、ひとまずここでは、事態はそれほど簡単ではないということを簡潔に述べるようにしたい。
これまでの歴史に登場する社会には様々な支配の形があった。例えば国王が国民を支配していた時代。そのころ成立していたのは、国王という人間による、国民という大多数の人間たちへの支配だった。教会の権力が強かった時代もあったものの、それもまた「神様を借りた人間」による人間の支配だった。
それでは現代はどうだろうか。現代では、資本家と労働者が、お金を媒介にした「雇う」「雇われる」という関係を結んでいる。もっとも昔と比べて現代を生きる人の享受する自由は大きいし、破産した資本家が労働者へと転落したり、労働者から資本家への成り上がりも起こるだろう。けれど、とにもかくにも労働者は収入を得なければ生きていくことができず、生活や仕事やお金に不安を抱き続け、その不安に追い立てられながら生きていくしかない。
資本を持たない者が生きるためには職を得なければならないけれど、そのときに、お前は人材となる他は何者でもないのだという現実を突き付けられるわけだ。そして自分自身を人材として売り込もうとしているうちに、徐々に自分の輪郭が損なわれていくのを敏感な人は察するかもしれない。誰もが見せていいものと見せてはいけないものの二つに人格を裂かれ、内面の抑圧と造形が行われる。労働者は資本家に気に入られるように振る舞わざるを得ず、仮面としてまとった卑屈な笑顔がやがて顔面に貼り付いてしまうわけだ。
ただしこのことをもって、資本家が労働者を支配していると考えるとしたら、事態は少し違っている。それはあくまで見せかけであり、資本主義の発生によって本当に起きたのは、人間による人間の支配から、人間ならざるものによる人間の支配への変質といえるからだ。
たとえばかつての国王は、自らの意志で破滅を選び、王権を滅ぼすこともできただろう。人間による人間の支配だったからこそ、支配する側の人間の意志によって滅びることもできるわけだ。けれど現代において資本家が破滅を選ぶなら、それはただちに別の資本に吸収されることと等価になる。このため資本家は自らの意志で資本を滅亡させることはできず、資本家が滅びたところで資本がゆらぐことはない。別の言い方をすると、資本家や、それに奉仕する政治家や、軍産複合体の関係者たちもまた、富の攻防に敗れたり、失脚したり、病に倒れたりして力を失えば一人のか弱い個人になるのであり、不気味な冷たい社会から切り捨てられてしまう運命を避けられない。そして、か弱い個人が倒れたところで仕組みはびくともせずにあり続ける。それは倒れずに引き継がれていくのだ。
こうした現実があるため、これまでの階級社会――古代奴隷制、中世封建制、絶対王政と比べて資本主義社会は別格であり、その本質は「人間ならざるものによる人間の支配」と言うことができる。先に述べた「人が努力して生み出したものが自らのもとに刃となって戻ってくる仕組み」とは、異なる角度からはこのように説明できるわけだ。
なお、以上の議論に関しては、現代の民主的な国では、有権者が選んだ代表を通じて国民をおさめるという、人間による人間の支配が成立しているではないかという反論を受けるかもしれない。しかしこれも十分に注意深くあるならば、民主主義を掲げる国であっても、政治の意思決定に深く関わるはずの国家機密が一部の人間に占有されていることに気づくだろう。権力を維持するために情報の占有が必要とされるならば、そのようにしてしか存在しえない権力のなかに矛盾が潜んでいる。すなわち現代のあらゆる「民主的」な政権は、根源的に民主主義と対立する仕組みを保有し続けていると言わなければならない。その意味で、人類はいまだ民主政を実現する段階には至っていないわけだ。民主政の実現は国家機密の消失と同時におこるのであり、そうしたことはすなわち国家間のあらゆる敵対関係が解消される日を待たなければならない。逆から言えば国家間が軍事的な緊張に包まれるほど、有権者が得られる情報はより強く統制され、そしてまた歪められる。そうすると民主主義は後退してしまうわけだ。
前節の最後の段落で民主主義について触れたので、これを例にあげながら続けて述べていくことにすると、現代の民主主義がいまだ不完全なものであるならば、次にぼくたちがいかにして民主主義を確立させていくかということが課題として浮かぶだろう。このように、ぼくたちは今の社会をとらえるとき、それが不完全で変化しつつあるものであり、いま生きている現代が過渡期――つまり古い時代から新しい時代へ変化していく途上であることを心に留めておかなければいけない。そしてもちろん、社会の変化はひとりでに起こるものではなく、現代を生きるぼくたちが様々な事件を前にしてどのような態度をとり、どういった存在であろうとして振る舞うのかによって左右されるわけだ。
生活の問題も、環境の問題も、戦争の問題も、あらゆる問題は、ぼくや、あなたがいるそれぞれの「今・ここ」を出発点として始まる。そして問題の解決は、人々に寄り添う立場から試みられる必要がある。なぜなら目指すべきより良い社会というのは、資本家でも一部の政治家でも、はたまた軍産複合体でもなく、人々にとってより良い社会――戦争や、弾圧や、差別や、飢餓のないような社会であることが前提のはずだからだ。
先に発表した「反戦の声をあげる世界各国の人たちに連帯する声明」「ここからはじめる平和――何もかもが戦争の論理に飲み込まれてしまう前に」という記事は、人々の立場からあらゆる戦争に反対することを表明するとともに、このようにして社会をとらえ、物事を考えていけることを微力ながら示したいという意図があった。この社会は不完全なものであり、ぼくたちは過渡期に生きていること。そして人々の側から決してぶれないこと。そこに立ち返って考えていかなければ、戦争をまのあたりにしたときに真っ当な立場をとることは難しいからだ。
2月24日に始まった侵略戦争をめぐって、プーチンの行為は法と秩序において許されないという主張が、様々な言論人から活発になされてきた。けれどもこれは根底から戦争に反対する立場にはなっていない。法と秩序から許されるような召集、徴兵、戦闘を否定していないからだ。しかし侵略が始まるとウクライナでは直ちに国民総動員令が出され、一般市民に向けて召集令状が送付された。国境では国外脱出を望む男性の拘束が行われた。それはまさに、国家がむき出しの権力によって人々の自由へと牙を剥いた場面にほかならない。それにもかかわらず、こうした状況を前にしながらも、戦争のもとに人々が動員されることそのものを許さないという立場をとった人は数えるほどであった。大多数いわく「攻撃を受けているのだからやむをえない」「戦わなければ国がなくなるじゃないか」「それがウクライナの法律であるのだから」――。けれどそういった人たちは過去の多くの戦争がそのようにして争われてきたことを忘れたのだろうか。防衛戦争であれ何であれ、人々は強制的かつ奴隷的に動員され、殺戮の場へ歩まされてきたのだ。
この点について反戦を掲げる人はその根拠を否応なく問われることに直面する。その問いに対してきちんとした根拠を持てなかったほとんどの論者がウクライナ侵略をめぐって総崩れになっていった。自覚していようといなかろうと、それは日本を再び戦争のできる国にするための地ならし運動の一翼を担うだろう。「攻められたらどうするのだ」「備えなければならない」との掛け声のもとに、召集、徴兵、戦闘をより強く肯定するような法と秩序をつくりあげようとする動きが進められるだろう。できるなら今からでもそのことに敏感であるべきだ。
戦争がなぜ許されないのか。それは、法と秩序といった上からの立場より前に、現にその地平で生活している人々の立場から、彼ら彼女らの生活を、街を、命を踏みにじる行為が許されないということが根底にあるはずだ。法と秩序はあくまで支配や統制をする側の論理にほかならない。戦争に反対するときに国際法や国際秩序をもちだしても、根本的にそれらが核兵器を含む軍事力を前提とするものである以上、ごまかしのある主張にしかならないことは言うまでもないだろう。
また、法と秩序とは、先に述べたような社会の仕組み、「刃の仕組み」についても追認する立場だ。たしかに労働基準法などの中に、歴史的に勝ち取られてきた権利が組み込まれている部分が見られることは書き添えておかなければならない。しかしぼくたちは、常に社会が変化の途上にあり、過渡期を生きているということに立ち返って考える必要があるのだった。様々な権利を勝ち取ることがなぜ実現してきたのかというと、それは過去を生きた人々が従来の法や秩序を変えようとして行動したからにほかならない。法や秩序を固定化したものとみなすのではなく、ぼくたち自身が当事者としてそれをどのように変え、つくりあげていくのかを考えるとき、根底となるのは人間の生活の側なのだ。そして今もまた、現在の法と秩序のもとで人権が侵害されている状況があり、それをどうするべきなのかという立場において、ぼくたちは考えはじめなければならない。
国と国の抗争の下敷きになって生活を破壊される人がいる。家族と引き離されて強制的に戦地に送られる人がいる。その地点から議論を始めないのは、思想の堕落と言わざるを得ないだろう。
先に「ここからはじめる平和――何もかもが戦争の論理に飲み込まれてしまう前に」という記事を出したのと同じ日、イギリスの労働組合であるUNISONが次のような声明を発表した。UNISONは地方自治体、医療、看護、教育、水道、電気、ガス、運輸、消防、警察にまでわたるイギリス最大の労働組合で、翻訳してくれた方がいるため声明は日本語で読むことが可能だ。
UNISON National Executive Council statement on Ukraine
声明(英語) 日本語訳
ウクライナとロシアの労働者に共通の利害があることを明らかにし、プーチン政権からもゼレンスキー政権からも独立して行動する労働者に連帯を表明している点など、この声明は評価に値する内容をもっているといえる。
国や政権とそこに生きる人々は同じではない。プーチン政権による弾圧を受けながらも抵抗する人がいるように、ウクライナの社会運動や労働運動(All Ukrainian Trade Union Assemblyなど)はゼレンスキー政権の行ってきた労働者の権利の切り崩しや軍拡に対抗してきた経緯がある。今のウクライナでも徴兵や動員への抵抗が存在しているのだ。
国境のどちら側にも暮らしている人々に目を向ければ、そこには共通の利害があることが浮かび上がる。資本家や、政治家や、軍産複合体の利害はいざ知らず、戦争がどちらの国の人々にも取り返しのつかない傷をもたらすことは言うまでもないだろう。家族を奪われ、街を壊され、職を失い、絶望に打ちひしがれ、そして兵士は血と泥にまみれながら命の奪い合いを強制される。どちらの兵士も同じ人間、同じ労働者であるのにもかかわらず――。こうしたことは、根底から戦争という理不尽な事態を否定するものにほかならない。
このようなことをまるで抜きにして、問題を国と国との衝突や、西と東の対立へと囲い込み、「攻められたらどうするのだ」と危機感を煽り立てていくとしたら、そこにはどういう意図が存在するだろうか。
例えば次の微妙な問題をとりあげよう。ロシアがウクライナへの侵略を始めて以降、現地の悲惨な映像が大量に報じられるようになっている。それが人々のなかに戦争を否定する決意をもたらすものなら言うことはない。けれども悲惨な映像の刷り込みは、新たな憎しみを凝縮し、次なる対立へと人々を仕向ける役目を担うおそれがある。今のような大量の報道はイラクではなかった。アフガンでも、パレスチナでもなかった。今回、それらと明らかに違うことが行われているということは、決して見落とすことができないのだ。
こうしたことについて何か不吉な気配を察知した人や、うまく言葉にならなくても見過ごしてはならないような引っ掛かりをいだいた人の感性は鋭い。けれどそうした気配や引っ掛かりは、「あなたはあの残虐な場面を見なかったのか」「あなたはロシアに譲歩するのか」「ウクライナに連帯しないのか」という踏み絵の前にかき消されてしまうわけだ。国と国、西と東への囲い込みはここでも見られている。言論人や政治家は少なくともそのことに自覚的であるべきだ。
侵略や残虐行為を許さないというのは平和を望む者として至極真っ当な態度にほかならない。けれどそれが巧妙に囲い込まれれば、平和を望む人たちの中にも、およそ平和とは程遠いものに加担させられる危うさが潜んでいる。侵略や残虐行為を許さないと言いながら、世界を東西の二つに分けへだてて緊張を煽り、軍事力に対してより強い軍事力を対決させていこうとするうごめきは間違いなく存在する。日本でも日米安保の下、GDP2%への防衛予算の増強や、非核三原則の棄損、緊急事態条項、敵基地攻撃能力、そしてやがては徴兵制や国防の義務――。そういったものの実現を画策する急所としてウクライナ侵略は利用されつつある。人々の権利を後退させて強権的な支配を正当化し、戦争のできる国へと変えていこうとすることが、今のウクライナを口実として行われつつあるわけだ。
それとともに「ここから先は許容してはならない」という水準が、平和や護憲を掲げる勢力の中からも引き下げられつつある。けれど理不尽な現状を追認し、自らをその理不尽につりあわせて納得させるために人間の知性があるのでは決してない。
平和と反戦の土台を固めることができなければ、一切のことはなし崩しにされてしまうだろう。国や、支配者に連帯するのではない。世界を国境で切り刻むのではない。共通の利害を持つはずの、ウクライナ、ロシア、そして世界各国の人々と連帯することを通じて、戦争そのものと対峙する。国境のどちらにもいる人々の立場から、戦争そのものを憎むのだ。
戦争が起こされてしまうのは、現代においてはまだ人々を連帯させる力よりも人々を分断する力の方が強いからといえる。人々の側から本当に戦争を止めることができるようになるためには、連帯の力が分断の力を超えなければならない。実際、人々のつながりを分断しなければ、強権をもってしても人々を戦争へ動員することはたやすくはいかない。戦争という究極の理不尽に向けて国が動員をかけようとしたとき、人々の連帯が強ければ、人々は自らにそのような理不尽を押し付ける政権に立ち向かうことができるからだ。
ある国とある国が戦争に突入しようとしたら、人々がそれぞれ自国の政権の横暴を止めるように動く。つまり双方の国の人々が、同じ市民、同じ労働者、同じ兵士という立場から手を取り合って、自分たちを戦争へと駆り立てようとした横暴な政権と対峙することを通じて戦争を回避する。これは何も理想論を主張しているわけではない。国境を越えた人々の連帯を実現するための思想的基盤と実力的基盤を固める日が来るまで、戦争は繰り返すということだ。
たしかに今日でも、利害と権力のせめぎあいの中で、一時的な停戦が実現されたり一時的な平和が維持されるということはしばしばある。けれどそれはまた、利害と権力のせめぎあいの中で人々を置き去りにして戦争が起こされる場合があるということも意味しており、停戦や一時の平和は次のより大きな戦争への準備期間なのだ。結局、人々が自らの手で戦争を阻止するだけの力を持つことができなければ、人々は自らの生活を、いつまでも自らの意思とはかけ離れたものに脅かされ続けなければならなくなってしまうだろう。
悲しいことに、今のところ人々には十分な力はなく、国境をこえた連帯どころか、多くの国の人々は国内においても自国の理不尽な政権に対峙しきれていないのが現実といえる。けれどぼくたちは今回のウクライナ侵略で改めてまのあたりにしたはずだ。戦争がどれほど生活を破壊し、人権を侵害し、民主主義を後退させるものであるのかを。そしてまたそれが、どれほど地球環境を損なってしまうかを。ぼくたちがいくら「環境を守れ」「SDGsだ」と言ったところで、その取り組みは戦車と爆弾とミサイルによって踏みにじられ、人類が環境問題を解決する日は決して訪れない。だからこの問題の解決には人類の未来がかかっている。
戦争を止める、戦争を回避するということは、社会の歪みにさらされて分断された人々が、その分断を乗り越えていけるかという問題と言ってもいい。本来ならば人間は協力し、共に未来を築いていけるはずなのに、今の社会は本質的に人と人が競い合い、奪い合うようにしてできている。周りを出し抜くことや他人を挫折させることが、自分の出世や、自分の生活をよくすることに繋がる。そうした社会の中で、人々はきりきりまいをしながら日々を凌いでいる。またそのようにして生産が急き立てられ、増加した生産物はやがて刃の仕組みを通して人々を脅かし、さらに分断するように降りかかってくる。
先の記事は抽象的な面も多かったので、発表した後、それでは具体的に何をしたらよいのかという質問を多く受けた。人が社会から切り離されている。また人と人も切り離されている。その現実から出発して、ぼくたちのとらわれ、閉塞した現実を打開する道を探ることが、戦争に対峙することとそのまま等価なのだ。ウクライナの問題、ロシアの問題は、また日本の問題であり、全世界的な問題だ。ウクライナでも、ロシアでも、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカでも、中国、韓国、日本でも、それぞれの人たちが当事者として、与えられた分断を乗り越えていこうとする。そのためのことを、それぞれが生きる「今・ここ」からはじめよう。
自分がどのような存在であれば良いのかと悩むことも、今の社会に目を向けて学ぶことも、改めて読むべき古い本を開くことも、過渡期を生きる当事者としてやるなら必ず意味があるだろう。学問は刃の仕組みを解くことができるか。芸術は、ばらばらにされた人たちの干からびた心を繋げるようなものを生み出すことができるか。そうしたことに未来がかかっている。この社会を生きるすべての人が、ある面では学者で、ある面では芸術家だ。そしてまた誰もが表現者だ。社会を変えることができるのは人間の表現にほかならない。言葉をつむごう。吹きすさぶ風にかき消されたとしても、聴く人はいるから。
戦争と、人々の分断と、生活の苦しさは、刃の仕組みを通して繋がった問題になっている。ぼくたちは根本的にはこれを解こうとして、力を蓄えていくしかない。どれほど困難な話をしているのかということに気が滅入る人もいるかもしれない。しかしこれは解決しえない問題とはいえない。誰にとっても突き付けられる問題であるからこそ、普遍的なものとして理解しあい、解決していける可能性を持っている。
実に人類最後の課題はこの刃の仕組みなのだ。それは今の時代を生きている人間がこれまでの歴史から与えられた条件といってもいい。それを克服した後に人類は本当の歴史を歩み始める。歪んだ社会にとらわれることなく、物事を考え、振る舞い始めるということだ。都市はその時はじめて核軍事力の脅威から解放され、人の意思によって築かれていくことになるのだろう。
今の社会は不完全なものであり、ぼくたちは過渡期に生きている。今の時代を生きていれば、このままの社会が永遠に続くように思えてしまうかもしれない。けれどそうではない、それはまやかしだということを科学的な認識の進歩は示している。ここから見える世界は暗いけれど、昨日がそうであったように明日があるのではない。本当の明日は今を生きる人間の手からしか生まれない。そして人類は常に「ここから見たらそうだ」という世界像を乗り越えつづけてきた。
今回のウクライナ侵略と、各国の軍事的緊張の高まりという事態を受けて、それに根本的にどう立ち向かっていくのか、この傷だらけの社会をどうするべきなのかということが世界各地で問われることになるだろう。そしてその問いが響き合い、共通の問題意識に立った模索が全世界的に行われるのならば、そこに希望はある。
人は、歪んだ社会に迎合して自らを歪めて生きていくばかりじゃない。歪んだ社会を正そうとして、生きていくこともできるのだ。
2022.04.11 三春充希