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「役に立つかどうか」だけで世界を判断しない

役に立つか、役に立たないか。そんな物差しで世界を見ると、役に立たないことを問答無用で無価値だと判断して捨ててしまう。

もし自分自身が、役に立たない側の分類だった場合、自分のことさえも無価値だと判断して、捨てようとしてしまう。

ただし、世界にはいろいろな物差しがある。

たとえば、私は猫を飼っていて、つい猫のおひげを集めてしまう。なんの役にも立たない。それでも集めるのは、なぜかというと、猫のおひげが「好き」だから。

もし役に立たない、という物差しだけを信じて、猫のおひげを捨ててしまったとしたら、私は大切な宝物を捨ててしまったことになる。

役に立つか、役に立たないか、という物差しは、他人によって変わる。時代によっても変わる。10年前に役に立っていたことも、今ではゴミになっていたりする。MDプレーヤーやガラケーも発売当初は先進的だった。けど今ではどこにも見かけない。

しかし、好きなものは、ずっと好きだ。ずっと一緒にいなくても、たまに目に触れたら、やっぱり好きだなーと思う。きっと猫のおひげのことは、10年後も50年後も好きだ。

だから、役に立つか、役に立たないか、という物差しは、実にくだらない。好きか嫌いか、という物差しに比べたら、すぐに移り変わってしまう不安定で脆弱なものだ。そんな物差しに影響されて、好きなものを捨ててはいけない。そう強く思う。

大抵の日本人は、「役に立たないものは捨てなさい」と教わって育つ。小学生からずっと、そんな英才教育を受けてきた。だから、自分のことを役に立たないと判断した時、命を閉じてしまおうと思うのも無理ない。

その呪いのような物差しは、大人になっても付きまとう。役に立たないと、会社から冷遇されたり、昇進が遅くなる。他の役に立つ同僚が褒め称えられ、役に立たない自分は、腫れ物扱いされる。

もしかしたら、子どもに「役に立たないものは捨てなさい」と教える大人は、役に立たない自分が冷遇されて、悔しい思いをたくさんしてきたのかもしれない。だから、子どもにはその二の舞を踏んで欲しくなくて、「役に立つ人間になれ」と教えようとしたのかもしれない。

しかし、その結果、自分を「役に立たない」と自己否定する人間ばかりになってしまった。「役に立っている」と自負している人間も、そこから落ちないように必死で日々をつくろっている。

そして、役に立たないからと、自分の好きなものでさえ捨ててしまうから、人生に充実感が無くなり、生きることがただの負担になってしまう。苦行になってしまう。囚人のような感覚を味わってしまう。

だから、自分の好きなものを、役に立たないからといって、捨ててはいけない。最終的に自分自身の手元に残ってくれるのは、その「好きなもの」だから。

「役に立つもの」はいずれ、役に立たなくなる。「役に立つもの」には賞味期限がある。だけど、「好きなもの」は、自分が好きだと思うのなら、それはずっと新鮮だ。一番確かで、安定的。

だから、今日も猫のおひげを集める。




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