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親のこと、死にたい気持ち

自分が本当に辛い時、親は自分のことを支えてくれなかった。父親は子育てに無関心で、母親は自分自身のことにばかり固執していた。

いかに自分が辛くて不幸かを、いつも子どもの私に対して話していた。「あの人と同じ墓にはいれないで」と小学生の自分に何度も言ってきた。(あの人とは、夫のこと。)大人になってからも、電話越しに何度も死にたいと口にしていた。その度に励ますことに時間を取られた。残業終わりの駅のホームで何本電車を見送ったかわからない。

ただ、今になって思うのは、私自身、子どもの頃から希死念慮があって辛かった。励まして欲しかったのは自分だった。それなのに、親は自分を励ますどころか、嫌味を言ったり否定をしてきた。その割に母親は自分がいかに不幸かを口にする割に、その改善のための努力はしない、専業主婦だたった。学もないから本なんか読まないし、努力もしなかった。死にたい死にたい言う割には、テレビを見て馬鹿笑いする母親を見ると、無性に腹が立っていた。他人に甘く自分には厳しかった。楽しそうにしている母親を見て、嬉しい気持ちと、腹立たしい気持ちが混在していた。

思い返せば、私は、親に励まされた経験がない。辛いとき悲しいとき、失敗や挫折をしたときに、自分を励ませないから、さらに自分に罰を与えようとする癖が付いてしまった。その結果、ずっとメンタル不調だったし、30歳の時にはじめて適応障害でダウンし、双極性障害となった。2年ほど会社を休職した。衝動的に頭を丸刈りにしたり、睡眠薬を大量に飲んだりして、会社に行ける状態じゃなかった。昨年復職できたが、いまでも月に一回通院している。だいぶ良くなったとはいえ、いまだに鬱の時には死にたくなる。休職期間のときに借金ができたので、なおさら金のことを考えると死にたくなる。その度、飼い猫、飼い犬のことや、妻のことを思って、ギリギリ死なないでいる。大切だから、とかそんな綺麗事なんかじゃなくて、死んだら迷惑をかけちゃうから、という責任感だけで、なんとか死なないでいるときもある。

そんな状態のとき、なおさら思うのは母親のこと。自分がいかに不幸か、自分がいかに辛いかを伝える相手にも、同じように辛い気持ちがあるということに、なぜ思い巡らせることができなかったのか。その自分の負の感情を相手に投げつければ自分の心は軽くなるかもしれないけど、その相手にとっては負担が増えることになるということに、なぜ気が付かなかったのか、ということ。

私は、きっと優しい。おせっかいだ。だから、誰かが辛かったら助けになりたいと思ってしまうし、それが家族ならなおさらだ。だから、母親の愚痴や不幸話を永遠聞き続けてしまい、結局、本来、自分自身に対して使うべき優しさや時間や労力を失ってしまい、結果的に自分が病気になってしまった。

それにもかかわらず、親孝行は当たり前という風潮がある。しかし、親しき中にも礼儀はあるし、何事も当たり前なんてことはない。誰かの優しさは、その誰かの負担の元に成り立っている。それを母親にもわかって欲しかった。ただ、そんなこと言ったとしても「子どもが親を支えるのは当たり前でしょ?」と反論され、不毛な議論が発生するだけ無駄だから、何も言わない。じっと耐える。

このnoteを書いている今も、死にたい気持ちでいっぱいだ。だけど、これは鬱の症状だと客観視もできてるし、きっと大丈夫。外も雨が降って低気圧だし、最近まで元気良かったから、その反動がきている。だから、おとなしくじっと絶えれば、またすぐに死にたい気持ちは消えてなくなる。双極性障害だから、それを経験的に知っている。生きているだけで偉いんだって、そうやって自分で自分を励ましている。親には励ましてもらえない人生だったけど、自分で自分を励ましている。自立できている。水道がないから井戸を掘った。手はボロボロだけど強くなったし、スキルも身についた。それと同じ。だから大丈夫。

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