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他者の不機嫌が気になる理由

なぜ不機嫌な他者、感情的な他者のことが頭から離れないのか。

それは、
「不機嫌になってはいけない」
「感情的になってはいけない」
そういう縛り(強迫観念)があるから。
そういう縛りを理由に行動していると、その縛りを逸脱している他人に対して懲罰的な気持ちが湧き、他人の不機嫌やヒステリックな様が異様に目に付いてしまう。

だから、
「不機嫌になってもいい」
「感情的になってもいい」
そういう赦しを自分自身に与える事で
縛りを解く事ができ、
結果的に他人の不機嫌や
ヒステリックな様がそこまで
目につかなくなる。

ただし、「不機嫌になってもいい」
「感情的になってもいい」という赦しが
あったとしても、
それは不機嫌になることやヒステリックに振る舞うことを肯定しているわけではない。
赦すことと、肯定することは全く異なる。

「不機嫌になってもいい」けど、それが周りにも自分のためにもならないから、あえて意識的に「不機嫌にならない」選択をする。
同じく「感情的になってもいい」けど、それが周りにも自分のためにもならないから、あえて意識的に「ヒステリックにならない」選択をする。それが自律的な大人の考え方である。

「〜してはいけない」という縛り(強迫観念)は他者の視点が入っている。だから、そういった縛りを理由に行動する(または行動しない)ことは、結局は自分でその行動を選んでいるようで選んでいない。選ばされているのだ(他律的)

一方で、そういった縛りを理由とせず、自分の判断軸に基づき選択することで初めて、自律的な生き方をしているといえるのではないかと思う。きっと、大人になるということは、こういうことなのかもしれない。

例えば、「廊下を走ってはいけない」というルールがあるから廊下を走らないという考え方は、ある意味、ルールに依存している。そもそもこのルールには、「廊下を走らせたくない」という教師の視点が内包されている。ゆえに、他律的であり、柔軟性に欠けるし、ルールを破る他者に対して、懲罰的な怒りが生じてしまう。

一方で「廊下を走ると危ないから走らない」という、自己判断の元、廊下を走らない選択をしている場合、それは自律的といえる。自分が好きで廊下を走らないと選択しているだけなので、廊下を走っている他者がいたとしても、特段気にならない。好きにすればいいと思う。

それと同じく、「不機嫌になってもいい」という世界観で生きれば、別に不機嫌な他者がいても気にならないし、それでもなお、「自分はなるべく不機嫌にはならない」という選択をすれば、自分の理想や考え方を守ることもできる。そして、それが自律的に生きるということなのかもしれない。

なお、冒頭に言ったことだが、赦すことと肯定することは異なる。「親や上司だろうがそういう人間もいるよね」と、「不機嫌な他者も存在する世界」を赦す。そうすれば、他者への怒り(コスト)をカットし平和に生きることができる。ただし、自分もそのように振る舞う必要もないし、肯定もしなくてもいい。さまざまな価値観がひしめき合う世界の中で、自分の価値観や理念を尊重して、自分の道を選択すればいいし、異なる道を否定することもない。

おそらく、「赦す」は「無関心」「自分とは関係ない」という感覚に近いかもしれない。これをアドラーは「自他の区別」と表現したのかもしれないと、勝手に解釈している。この考え方のおかげで、自分はかなり精神的に楽になった。

不機嫌な親やヒステリックな上司などに悩んでいる人には、ぜひ参考にして欲しい。他人の不機嫌のお世話を辞めて、自分の人生を取り戻して欲しいと切に願う。

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