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人と話すのが怖い

鬱になってから、人と話すことが怖くなった。



そう思ったけど、よく考えたら子供の頃からだった。

小学生、中学生のときから、友達とさえ何を喋っていいかわからない。
普段はなんとなく数人のグループの端っこにくっついている。
わたしが話題の中心になることはない。
「ガヤ」担当だ。
なんとなくツッコミを入れたり、相槌を打つ、リアクションをする。だけ。

帰り道とかで、誰かと一対一になると、途端に、何を話していいのかわからなくなる。
頭の中で「あのことを話そうかな」と思っても、数秒間のうちにシュミレーションすると、何も盛り上がらないし相手は楽しくないだろう、と考えて結局何も話さなくなる。
せっかく「一緒に帰ろう」と誘ってくれたときも、一切黙って帰り道を進んだことも数え切れない。



最近は、付き合いが浅いときの一対一は大丈夫になった。
少なくともその時間は、相手は自分のために時間を作ってくれているから(自分から誘うことはないため、その時間は相手が誘ってくれている状況になる)。
聞くことは好きだから、どういう質問とリアクションをすれば相手が喜んでくれるかわかるようになった。
ただし、2回目以降は何を話していいかわからなくなる。

3人以上になると、また途端に何を話していいかわからなくなる。
とりあえず「ガヤ」担当をする。
わたしが話すより、他のふたりが話している方が楽しいだろうし。
わたしが何か口を挟むと、一気に盛り下がると思うから。

特に飲み会は嫌いだ。
わたしは飲み会をするような友達はいないので、飲み会があるとすれば仕事関係者との会になる。
苦手なのは、仕事なのか、プライベートなのか曖昧な感じ。
本当はその両方をして「コミュニケーションを深めましょう」的な感じなのだろうが、どっちかにしてくれればまだましなのに、と思う。
わたしは仕事関係者にプライベートな話をするのが苦手というかできない。
だからといって仕事の話ばかりすると相手に面白くないと思われるだろうし。
プライベートな話をすると、取り繕っている「すごい自分」が剥がれて幻滅されるだろうし。
わたしはお酒が飲めないし飲まないから、どんどんテンションが上がっていく周囲に対して、常に俯瞰して冷めて見ている自分がいる。
そんな自分をまた嫌悪してしまう。

一対一にしろ、飲み会にしろ、1時間が適量。限度は2時間。



今、鬱になって、自分を休めている。
するともっと人と話すことが怖くなった。
休んでいても、前の “アクティブに仕事をしている私” を知っている人は、「最近どう?」って感じでお誘いをくれる。
求められていることは大変ありがたいのだが、休んでいるから話せるような話題もない。
数少ない話せることといったら、ちょっと気分が良くなった散歩のエピソードとか、カウンセリングを受けてわかった愛着障害の原因とか。
どちらかというとネガティブだし、声をかけてくれるビジネスパーソン達とは距離の遠い話。
とりあえずの「ガヤ」も、そんな気力はない。

自分がひとり歩きしている、というのはこういうことかもしれない。

誘いを受けて行ったとしてもそんな状態で、何も価値を出さなかったら、ただがっかりされるだけだ。
行かなければ、 “アクティブに仕事をしている私” のイメージのままで止まってくれるのに。

完全にひとりで生きていきたい。

誰とも関わらずに生きていきたい。





こう書いてみると、「恐れ・回避型」の愛着スタイルが顕著に出ているなと思う。

ケアするとすれば、

「休んでいる自分」「仕事の話しかできない自分」「相手にとって無価値だと思う自分」は存在しない。

もし無価値だという人がいたなら、それは相手がおかしいだけ。

「すごい自分」とか「アクティブに仕事をしている自分」は幻想。それで居る必要はない。

仕事の話をする人にはその面だけ見せていればいい。

一方で「プライベートな話」「弱い自分の話」「そのままの自分」も求めている人、受容してくれる人はいる。





そうか、わたしは「弱い自分」を理解してくれる人が欲しいんだな。

でも今は周りにそういう人はいない。

家族?まさか。家族に弱音は吐けない。





……そう思い込んでいるだけかもよ?
家族には弱音は吐けないって。

だって、弱音を吐いたことある?
ないよね。
言ってみないとわからないよね。
「家族は弱い自分を認めてくれない」って思い込んでいるだけかもよ?

うん、そうだね。
思い込んでいるだけかも。
記憶にある昔からそうだったから、「弱い自分」を出したことも無かった。

今度、言ってみようかな。
「しんどい」って。

それで、そのままの自分を受容してくれたら、外の世界では、弱い自分以外のそのままの自分を出していけるかもしれない。

昔調子がよかったときは、パートナーがその存在(=安全基地)だったから、外の世界では「アクティブに仕事している自分」でいられたんだな。

わたしが外の世界でやっていくには、安全基地が必要なんだ。

ゆくゆくは家族だけじゃなくて、自分自身が安全基地になれるだろうか。





完全に思考のためのnoteになった。
書いているうちに多少は整理されたし、吐き出せた。
今までは自分の中だけにとどめていたから、noteに書くことでだれかひとりの目には入ると思うと、すこし世の中にそのままの自分を出す練習になっている気がする。

もし最後まで読んでくれている人がいたら、ありがとうございます。

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