見出し画像

毒母と娘の30年戦争4

大学病院では色んな仕事を意欲的にしていた。
そのため色んな方々と繋がることができた。
 
私は仕事が好き、新しいことを学ぶのが好き、保守的な考えは嫌い、
など常に変化を求める人になっていた。
誰かが困っていれば仕事を手伝い、色んな事を覚えて手が回らない所を助けるようになっていた。
 
 
その行動が今後に大きく役に立つことになるのに、相変わらず毒母は忙しくする私をよく思っていなかった。
 
「こんな安月給でコキ使われて」
「大学病院なんて名ばかり。そんな雑用やって」
「早く医者かナースマンを捕まえて結婚しなさい」
 
 
私は「お婿さん」を探しに大学病院に入ったわけではない!
キャリアアップのための仕事であり、それが雑用だが華やかな仕事だろうがそんなことは関係ない。
 
ずっと働いている父親は仕事を熱心にする私を良く思っていた。
「みんなから頼られる存在にならないと一人前とはいえないぞ」
と応援してくれていた。
 
 
毒母は相変わらず宗教を熱心にやっていた。
私が大きな組織で働いていることをいいことに「選挙を頼め」「新聞を勧めろ」と要求してきた。
 
私は自分の意思で宗教に入ったわけではなく、生まれながらにして入れられているのでその良さはまったくわからない。
 
自分が「良い」を思わないものを他人に勧めるほど私はバカじゃない。
でも毒母は私の存在を自分の手先のように思っているため、色んな要求を突き付けてきた。
 
 
私は頑なに突っぱねていたので、今度は私の周囲の人の悪口大会が始まった。
毒母は私が幼少の頃から他人の悪口を日課としていた。
同じクラスのお母さん、私の友達、宗教内の人、身内…あらゆる人の悪口を言っていた。
だから今に始まったことではなかったが、ますます酷くなった。
 
若い頃から毒母は顔つきがキツかったが、悪口を言えば言うほどますます顔つきがキツくなった。
 
「性格の悪さは顔に出る」
 
というのがよくわかった。
 
幸いなことに私は父親に似たので顔のキツさ皆無。
むしろ「たぬき顔」なので心底ホッとしている。
 
 
仕事に慣れて、毒母以外の人間関係は良好…。
 
そんな日々が続いていたある日のこと。
 
毒母が「咳がずっと止まらない」と言い出した。
かかりつけの医者のところでは「喘息」と診断されて薬を飲んでいたが、それでも良くならない。
 
「他の医者に診てもらった方がよい」
とアドバイスしていたが、
「あの医者が喘息と言っているんだから、あんたに何がわかる」
と怒る始末。
 
その状態は1年以上続いた。
 
そのうちちょっとした坂道も息を切らすようになり始めた。
どう見ても喘息症状とは違う。
咳の音も違う。
 
「とにかく肺の専門医に診てもらえ」
と言うもまた
「医者でもないあんたに何がわかる!」
と言うことを聞かず、数か月放置。
 
とうとう父親が怒り出して
「娘の言う通りにしろ!専門医に診てもらえ!!」
の一言でやっと専門医に診てもらった。
 
 
「すぐに大きい病院に行ってください!今日にでも行ってください!」
 
嫌な予感がした。
 
大きい病院…
 
私のところですか…
 
そーですよね…
 
私が働いているところくらいしかないですよね…
 
はぁ~…私のオアシスである職場に毒母が登場するんですか…
 
ついてない…
 
 
 
大学病院は救急車で運ばれなければ当日予約が難しい…。
 
でも私は横の繋がりがあるのですぐに予約を取ってもらえた。
 
あり得ない…あり得ないことなのに…特別待遇なのに…
 
毒母から感謝の一言もない。
むしろ「当たり前の待遇」という態度をしてきた。
 
父親は「良いところに勤めていてくれたし、お前のお陰だ」と感謝された。
 
 
 
すぐに検査をした。
 
主治医から私だけ呼ばれて
「職員だから回りくどい言い方はしないよ。お母さんは癌だよ」
「余命は1年くらい。元気なうちに好きなことやらせて」
「手術はできないところ。治療はどうする?家族でよく話し合って」
 
 
やっぱりそうですよね~。
だと思いましたよ。
だから早く専門医に行けと言ったんですよ。
でも「あんたは医者じゃない」って突っぱねたんですよ。
 
 
「本人に伝える?どうする?」
 
いやいや…自分で蒔いた種ですからね。
しっかり受け止めてもらいましょうよ。
 
 
本人に告知すると
 
「大丈夫!私には宗教がある!!」
 
本当に頭がいかれていると思った。
 
「宗教があるのはいいけどさ、しっかり治療してよね」
 
と念を押した。
 
父親はまさか癌とは思わず、ショックが大きすぎたのか元気がなかった。
 
 
 
それからが地獄だった。
 
いや…今までも地獄で「沼の底で生きている」と思ってきたけど、その沼は実は「底なし沼」だったことに愕然とする。
 
 
まずは「治療法の選択」
 
手術はできない。抗がん剤をするか、しないか。
 
私は抗がん剤治療をやるべきだと。
父親は「何で患者に治療法を選択させるんだ!医者が決めるんだろ!」と怒り
「今の時代は患者自身が治療法を決めるんだよ」と教えてやったが、納得いかず怒り狂う。
 
二人のやり取りを見てさすがに毒母はしょんぼりしていた。
 
しかし…しょんぼりなんて偽りの姿だとすぐにわかる。

 
治療が始まると通院、入院を繰り返す。
 
入院中は自分の病院なので仕事終わりに洗濯物を取りに行って、食費をもらって父親の食事を支度する。
また次の日に洗濯物を取りに行って、前日の食費のレシートを持っていく。
 
レシートに目を通して
「お父さんにおつとめ品を食わすな!」
と叱られる。
個室ではない。相部屋で。
 
すぐに調理して食べるんだからいいでしょ?
節約にもなるし、私、悪いことしたかな?
 
「うちの食費は月10万だから!お父さんに絶対おつとめ品なんて食べさせるな!」
 
はぁ?じゅうまんえん??
三人家族、私は女。大食いではない。むしろ食は細い。
父親も食は細い。
 
あ~…それでか…。
幼少の頃からしょっちゅう店屋物、外食だったのは…。
 
呆れながらも「ハイハイ」と返事をした。
 

毒母の通院、入院で忙しくなる私は父親と相談して自分用の車を買った。
 
買ってもらったわけではない、自分で払った。
 
またこれに怒り出した毒母。
 
「勝手に車買って!それもマイナーなメーカーを買って!」
 
いや…父親に相談したよ。
メーカーは標準的なところです。
 
「お父さんが良いって言ってもダメなの!」
 
訳がわかりません…。
 
とにかく私の車通勤が始まった。
 
 
あれだけ怒り狂った毒母だが、私が車通勤になると通院治療に「乗せてけ」と言ってきた。
 
「仕事の時間があるから朝早く出る」
と言っても「それでもいいから乗せていけ」と引かない。
 
黙って乗っていてくれればいいのだが、朝からそこでも悪口大会が開催されるので職場に着いて持ち場で大きなため息をつく。
同僚からは「お母さんの看病大変ね…」と言われるが、そうじゃない。
悪口大会が私にはストレス。仕事のする前から一日が終わったような気になった。
 
 
ストレスの元はまだある。
それは父親だった。
 
毒母の入院中、父親は家事を一切しなかった。
私より早く帰宅していても何もしていない。
 
そして何より…主治医の話を聞こうとしない。
これには主治医も私も困った。
 
主治医が治療経過の報告をしたいと内線で呼ばれる。
主治医も私も空き時間で話せるのでそれは楽でよかった。
 
その話の中で「お父さんと話したいんだけど来れない?」とたびたび言われた。
 
本人に言ってるんですけど、避けるんですよね…。
 
「でも妻のことだよ?避けては通れないだろ??」
 
私もそう思ってうるさく言うんですが…。
 
 
入院治療中も一度も面会に来ることがない父親。
 
ツラいのはわかるが、あまりにも無責任、全てを娘に押し付けた。
 
 
そんなことを繰り返して数か月、毒母は良くなるどころか癌が転移をしていった。
治療は続けていたが、日に日に状況は悪くなり、入院することも多くなった。
 
 
そして…
私にとって「一生の心の傷となる」出来事が起きた。
 
 
入院中のある日、病院の廊下をフラフラ歩いていた毒母。
足元はおぼつかなく見るからに危ない。
 
私は病室に戻るように誘導した。
 
その時だった。
 
 
「あんたがいるせいで私の人生めちゃくちゃよ!!!!!!」
 
 
はっ?
どういうことですか??
私は生まれたくて生まれたわけじゃない。
散々毒母に振り回されて、たくさん嫌なことがあって、たくさん我慢を強いられて、私なんていなきゃいいのにって思ったのに。
 
私の方こそ「あんたがいるせいで私の人生めちゃくちゃ」だよ。

 
そのことは父親には言わず、私だけに留めておいた。
 
大人な私に対して相変わらず父親は私に甘えて主治医の話を聞くことはなかった。
  
しかしそんな状況が続くわけもなく、その後、父親の仕事が無くなりずっと毒母の付き添いをせざるを得なかった。
 
毎日来ていたが、やはり主治医から話を聞くことはなかった。
 
 
そしてその日は来た。
 
 
毒母が死んだ。
 
 
私の気持ちは晴れ晴れしていた。
不謹慎だが、正直な気持ちだった。
 
これで私を縛り続けたものが無くなる。
これからは自由だ。
 
葬儀は私が出した。父親は全く使い物にならなかった。
 
毒母の宗教で出してやった。ものすごい人数がきた。
それだけ宗教にのめり込み人脈も広げていたのかと思うと怖くなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?