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アトピーや喘息でも人生をバラ色にできるお話<その2>

こんばんは。
皆さん、お元気でいらっしゃいますか?
私はお陰様で今とても元気です。

前回は、アトピーや喘息でも人生をバラ色にできるお話<その1>出生時のころのお話しました。アトピー、喘息と共に歩んできた私の人生の、今回は
<その2>3歳から小学校低学年までをお伝えします。

3歳から小学校低学年

生後2週間で発症したアトピーに引き続き、3歳頃には今度は喘息発作が起き始める。後に呼吸器内科の先生がおっしゃったのは、アトピーから喘息を発症するのは「アレルギーマーチ」と言ってひと繋がりらしいが、このアレルギーマーチにまでなる人は相当マレな事らしい。
こういうのでマレにはなりたくなかったよ……

喘息発作はなぜか夜中に起きる。なので昼間のうちの生活態度が重要になってくる。

【喘息患者がやってはいけないこと】

⚫︎大笑い厳禁
大笑いすると息が弾んで発作を誘発するから

⚫︎焼肉、焚き火、キャンプファイヤー厳禁
煙を吸い込む事で発作を誘発するから

⚫︎シャワー厳禁
浴槽のお湯で洗髪すべし!
シャワーを浴びる事でお湯に含まれる塩素ガスを吸い込むことになり、喘息発作を誘発するから。私が洗髪すると浴槽のお湯がグッと少なくなるのでいつも終い風呂

⚫︎満腹になるまで食べるの厳禁
満腹になると胃が肺を圧迫し、気道が狭まって発作に繋がるから

⚫︎仰向け寝厳禁
仰向けになると気道が狭まるので発作に繋がるから。なのでいつも横向きで寝るしかない

⚫︎バスを待つなど道路端にいるの厳禁
ナント!当時はバス、トラックの排ガスパイプは左側についていた。なので道路端にいると排ガスをマトモに吸うことになる。その後いつの頃からかそのパイプが右側に付く様になった。政府の排ガス規制もあったと思う

⚫︎タバコを吸う人の側にいるの厳禁
当時は非喫煙者の方が肩身が狭く、街中は喫煙者でいっぱいだった。バスや電車に乗る機会はなるべく避けるしかない。ヘビースモーカーだったおじいちゃんの家には遊びに行けない

⚫︎光化学スモッグ注意報が出ていなくても、真夏の外遊び厳禁
今は熱中症の事があるので誰でも厳禁になりました

⚫︎不要なお泊り厳禁
環境が変わる事で発作を起こすことがあるから。お友達の家にお泊まり会などした事がない。修学旅行、林間学校は妙な緊張感で終始した。結果、喘息発作を起こさなかった修学旅行は高校の時のみ。

息子ができて、お泊まり会に行く年齢になった時、この子はお泊まり会ができる子で本当に良かったと思った。

⚫︎花見厳禁
花粉を吸うから

⚫︎食物アレルギーのある食べ物厳禁
私の場合、お餅もアレルギーがあったので、お正月の餅はひたすらガマン。その他、山菜、筍、鯖、卵、エビ、蟹の甲羅のヒダヒダ、アワビもアレルギーで、顔が腫れ上がり呼吸困難になるという事で、普通の子どもだったら気にすることもない事が、私には重大禁止事項だった

さらに喘息発作はいつ起きるか分からない、コントロールできないもので、不安といつも一緒だった。

でも子どもだったから良かった面もある。

子どもは今現在に生きているので、いつまでも不安は続かず、過去を振り返って思い悩む事も少ない。このお陰で、大人になってもいつまでも不安を引きずることは少ない人間になったと思う。

気をつけていても起きる時は起きる。

母の故郷の京都の人が良くいう言葉「しゃあない」(うちの親戚だけ?)
起きたことは「しゃあない」ので、次なんとかしよう、、、そんなことが否応なしに身についたと思う

小学校低学年では、今思うとかなり厳しい人間関係を経験した。まぁ、イジメというのかなぁ。そんな言葉は当時はなかったけど。アトピーだけなら何とか遊びの仲間に入れてもらえたと思うが、喘息となると大抵の遊びは入れてもらえなかった。

鬼ごっこ、大縄跳び、ドッチボール、集団で遊ぶ物は一緒に遊んでもらえなかった。私が発作が起きると面倒くさいからだと思う。なぜか自分でもそれは納得していた。

プールの時はショックな事が起きた。

ある日友達から、「美佐ちゃん、その肌の病気はうつるの?」と聞かれた
子ども心に嫌な感じがして「なんでそんな事聞くの?うつらないよ」
と答えると、その子はすまなそうに「お母さんが聞いてこいって」と言った。

どんな子どもも親思い。お母さんに言われたら、言いつけを守ってやろうとする。それがお母さんのためになると思うんだろうな。でも友達にはこんなこと聞きたくない。その子はそんな葛藤をしたんだと思う。親より子どもの方がよっぽど立派だと思う

その子の親は懇談会でも、「プールが始まる時期だけど、クラスに皮膚病の子どもがいると聞きましたがそれはうつらないと確認はできていますか?」
と担任に詰め寄ったそうだ。

しかもその時、クラスの数人の親たちがよく言ったという様にうなづいていたらしい。母はその時、「親が平気でこんなことを言うくらいだから、学校現場で私が他の子ども達にどんな扱いを受けているか容易に想像できた」と、私の成人式の時に話してくれた。もう時効だよね、と言いながら

私だけでなく、お母さん、お父さん、みんな良く頑張ってきたよね〜。

担任の先生方には恵まれた。それと病院の先生方にも一緒懸命に私の病気を治すことに尽力してくださった。でも一人だけ急患でかかった医者だけは許せなかった。

面倒臭そうに診察し、はては「喘息とかアトピーとか言うのは、親が甘やかしているからじゃないんですかねぇ」と言った。私はその医者を睨みつけた。その医者は私の視線を感じてたじろいだ表情をした。二度とそんな事言うなと心の中で罵倒していた私って、相当気が強いです。

私の気の強さは生来のものもあると思う

でも、確か小学校二年生の頃だったかに喘息で二度入院した経験からもあると思う。母が勤めていた病院は目黒の国立病院で、小児病棟には重病の子ども達が入院していた。私はそこに入院した。プレイルームに行くと様々な子どもたちが遊んでいた。みんな笑顔で楽しそうで、面会の母親たちも悩みのない顔をしていた様な記憶がある。

足から管を通して、赤い液体(たぶん血液)が入った大きな袋を引きずってブロック遊びをしている子。まん丸の大きな顔をして、髪の毛がまばらな子
私と同じ年の子もいたが、その子は一度も学校に行くことなく、ずっと病院暮らしだと言った。

まん丸の顔をした子は癌だった。たぶん私が退院した数日後に亡くなったらしいが、それは私が高校の時くらいに知った。母が当時私に、「アトピーや喘息で死ぬことはないからアンタは恵まれているよ」と良く言っていた。

その小児病棟では私が一番軽い病気だった。いずれ退院して学校に行ける。それが夢のような事と思っている子どもたちもいるんだな、私は恵まれているんだ、治る可能性もないわけではない。死ぬことはない。それだけでどんなに素晴らしいことか。

その子たちとその母親たちは、先が分からないから、生きているこの瞬間が幸せなんだな

この入院の経験が私を強くしてくれたと思う。

ここまでお付き合いしてくださってありがとうございました

アトピー、喘息と共に歩んできた私の人生の、今回は
<その2>3歳から小学校低学年までをお伝えしました。

明日は明日の日が昇る、きっと良い日が待っている


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