カントと人工知能

カント哲学が人工知能に貢献してるって知ってましたか??
今日の令和哲学カフェでは、
・人工知能をつくる上でどんなポイントでカント哲学が貢献しているのか?
・人工知能の問題に対してカント哲学にはどんな限界があるのか?

という質問からディスカッション進められました。
なんというファーストインパクト。

カントは、認識形式の発見と体系化を行いました。
認識形式とは、言語エネルギーの因果アルゴリズムのようなものだそう。
(AだったらBだ、という原因と結果の対称性がつくものが因果)
AIのディープラーニングはパターンの暗記をさせる技術になりますので、
因果アルゴリズムの活用の応用編というわけですかね。
なのでカント哲学は人工知能の開発に貢献をしたといえると。

けれど、カント哲学は
模様・形自体が、いつ壊れてしまうかわからない危うさをもっている限界があること。そして、誰もが情報知識を生産できるプラットフォームの提供まではできなかった限界があること。というようなことをお話されていました。
令和哲学者 Noh先生の解析はなんともシンプルでストレートな本質からハッとさせられ、ぐいぐいと迫ってきます。

私なりの解析でこれらを聞いてかみくだいたことは
AIはパターンの組み合わせのプロなのかなと思いました。過去に蓄積したパターンとそこから未来を予測するパターンが全て計測ができてしまうので、そこから膨大な情報を統制していくことができる。模様・形は超スピードでコピーしていくことができるので、ディープラーニングによって、人間の今までの情報蓄積を超えて情報伝達スピードを上回るのが
けれど、そもそも人間とは何か、心とは何かがわからないままに、模様・形があるところから出発して認識している(つまりは「この体の自分が自分だ、人間だ」と思い込んでいる)限り、いつ壊れるかわからなくて、危うくてもろい存在になってしまいます。

究極の出発点、源泉動き1の規定のそのものを人間の出発として定義することができなければ、なにかしらの名前をつけて模様・形のあるところから出発するしかないので、そこには不安がつきまとう。そんな本質的限界からスタートしてそこを超えるものをつくろうとしているわけですね。

問いかけがあって、興味をひかれたのでちょっと調べてみました。リテラシーするのかによるとは思いますが、例えば大学教授でカントと人工知能を研究されている、黒崎政男先生という方がいました。
インタビューの中で、こんなことを言ってました。

 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』というフィリップ・K・ディックの小説が「ブレードランナー」っていう映画になったのが1982年です。あれが衝撃的におもしろくて、あのときに、ああ、人工知能やアンドロイドの問題って、じつは人間とは何かということを裏側から問うんだな、そもそも人間って何だという問いを惹起するんだなということを考えていました。
記事元:「人と情報テクノロジーの共生のための人工知能の哲学2.0の構築」インタビュー記事より抜粋

オモシロいですね。今日はここまでにします。読んでいただきありがとうございました。

令和哲学カフェは月~土まで平日は基本的に毎日開催しています。

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