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Review 7 フムフム

 「人間の本質は、善である」と言い切ることに興味を惹かれた。

 人間は複雑怪奇なもので「必ずしも善とも悪ともいえない」、とずっと思っていた。善だ、悪だという二元論は「お話の中だけのこと」「宗教上のこと」で、「絶対善」「絶対悪」というものはなく、性善説とか性悪説というのは、ある意味使い古された観点だと感じていた。だからむしろ、あえてそこに焦点を当てたわけ、というのが何か知りたかった。

 しかしこの本を読んで思う。実はまだまだ、「原罪」は有効な概念で、おまけに東洋人の自分も相当に「人間は悪だ」と思って(思わされて)いたのかもしれない、と。そういう自分に気づかせてくれたという点で、貴重な読書体験だった。

 『Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』上下巻。著者はオランダの歴史家でジャーナリストのルドガー・ブレグマン氏。これまでの歴史、哲学や思想、経済を幅広く振り返りながら、私たちがいかに盲目であったかをつまびらかにしていく。

 ブレグマン氏は何も新しい思想を持って私たちを洗脳しようとしているわけではない。目の前にこれまでもずっとあったものを使い、もう一度最初から、違う見方で考えたらどうなるかを考察・実証しようとしている。

 特に1900年代前半~1980年ごろまでに行われた有名な心理学実験や、人々に多大なインパクトを与えた事件は、氏のフィールドワークや調査、データによって見事に印象を覆される。

 ほとんどの結果は、「そんな事実はなかった」。まるでハンス・ロスリング氏の「ファクトフルネス」(日経BP)を読んだときのような気持ちになった。実験の行われた時代はよっぽど杜撰な時代だったのだろうと思われるが、マスメディアが台頭し始めて勢いを増した時代で、人々がマスメディアというものに不慣れだったということもあろうかと思う。

 実際、氏は何度も「真実に目を向けよう」と言う。研究の結果は、ほとんどが実験実施者の願望であり、メディアの捏造だったそうだ。そしてそれが主流としてまかり通り、覆されない事実として認識されていること事態に問題がある、という。確かに間違った実験が「通説」であることによって何度も「人は性悪」が上書きされているのだとすれば問題だ。

 この本を読むまで私は「プラセボ」という偽薬効果のことはともかく「ノセボ」という「病は気から」的な効果については、重大に受け止めたことが無かった。どちらも思い込みが心身に与える影響を指すが、プラセボは効果のない薬が効いた、という最終的にポジティブな結果なのに対し、ノセボは疑いまくって病気になる、本当の薬さえ効かなくなるというネガティブな結果に至る。

 バファ〇ンの半分が優しさでできているのとは反対に、この世界はほとんど「ノセボ」でできている、というように、この本では「ノセボ」のもたらす弊害を重視する。「こうあってほしい」という願望が反映する世界だというのだ。そしてこれまでの世界は「人間は本来性悪」と思う人々により、邪悪な世界を作り上げてきたのだ、と。

 ブレグマン氏自身、彼の前作においてはこれまでの価値観を踏襲していた、と、随所で告白する。人間がそもそも性悪だという観点から物事を見ていて疑いもしなかったことを、「パウロの転回」的に今作で覆している。

 上巻では、ルソーの性善説、ホッブスの性悪説を対比させつつ、様々な角度から「悪ではなく善をベースにすると、物事は違って見える」ことを論じている。下巻では「元来善とするならこれからどうやってより良い社会にしていくか」についての仮説が述べられる。

 本来は、すべてが善きものなのだとブレグマン氏は言う。それが条件によって悪に変わる。善き人が、すべての悪を成すのだ。戦争も、ホロコーストも。独占、金銭、権力、文明、そう言ったものが善を成して頂点に立った人を悪に変えてしまう。狩猟採取時代のコミュニティなら、変化した善人=悪人を放逐することができた。定住したあとの人類は、悪を追いやることができない。都市や国家というものが巨大になりすぎて、個人と集団がコントロールできるスペックを超えてしまっているからだ。

 そしてなによりも、良いことだと思われている「共感」が、実は諸刃の剣だということをブレグマン氏は指摘する。「共感」はオキシトシンというホルモンに基づき、強い仲間意識や愛着を作り出すだけではなく、自分の「身内と敵」を分けるものにもなるらしい。強い身内への共感は、敵を作り出す。人は「善」であるがゆえに強い共感により、敵を作り、攻撃する。

 誰か悪い人がいたり、人々が疑心暗鬼となって敵対することで諍いが起きるわけではなく、むしろ、共感しすぎた結果の仲間意識から諍いが起こる、というのだ。そしてそのことに対抗できるのは「理性」「思いやり」「対話」しかないという。

 上巻で、これでもかと証拠を見せられるから下巻ではさぞかし説得力があるのだろうと期待するが、正直言ってそうでもない。下巻はどちらかと言うと、善をベースにした成功例を示し、こうあってほしいという理想論に感じる。上巻は面白く読んだが、下巻は勢いを失っている感はある。

 私自身、新型感染症が広がりを見せるご時世になってから、既存の社会のイデオロギーやシステムはもはや行き詰っているのではないかと感じ始めていた。人々は分断していて、引き裂かれているというドラマに、辟易しつつあった。「民主主義」とか「共産主義」などという「言葉」だけが残っていて、なんだか現実と齟齬を生じているような気がしてならなかった。それらすべては「旧式」の概念なのではないか。私たちはついに、新しい概念を必要としているのではないか、と。

 この本が世に出る、ということも、何か新しい概念を求めている人々が増えた、ということなんじゃないかと思ったりする。

 それにしてもこの本は、もう少し以前なら「啓発本」の片隅にそっと置かれた本になったかもしれない。利己的に振舞うことで利益が得られるよりずっと豊かなものが(金銭含む)、利他的になることによって入ってくるという「自分のためより人のため、そうすると自分を含めたみんなのため」というその論は、まるでスピリチュアルな自己啓発本のようにも感じる。著者自身それを懸念しているようで、その差異を説明するのが苦しそうな部分も見受けられた。ルソーとホッブスの対比というのも正直平凡と言う気がしないでもない。

 そしてまた、やはり「キリスト教」の「原罪」からどうしても逃れられない西洋人の業も感じる。キリスト教に根差した社会で「人間は善である」というのは、東洋人が言うのより相当勇気がいることだと思う。実際にルソーは性善説の立場は取ったかもしれないが、自ら性善説を唱えたわけではないのに迫害されている。

 西欧世界でこの本が売れているとしたらそれはきっと、何かが変わっているのだ、と思う。実際、著書の中でも「民主主義」を別の側面から眺めてみるなど、新しい概念を模索しているような記述があった。その流れがあるから、日本でも「啓発本」の山の中に埋もれずにいるのかもしれない。

 日本では著者の主張は珍しくないし、受け入れられやすい気がする。今回の感染症の流れの全体をみるにつけても、政治的なことは別として、日本の人々の多くはある意味ブレグマン氏のいうような「善意に基づいた非常に理性的な行動」を、自然にしているように思った。マスクをしたり、咳エチケットやマナーを守ることは、やはり根底には善意と思いやりがあると思う。

 確かに歴史をポジティブな側面から見つめ直す、という切り口は新鮮に感じたし、これから必要な姿勢で、気持ちが明るくなる。ただ、この本では、性善説・性悪説を唱えた最初と言われる孟子や荀子についてなど、東洋の思想についてはほとんど触れられていない。それは残念に思った。西洋の事象だけをもとに「人類」と言い切ってしまうのは、どうか、という気持ちが、少し、した。

 







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