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Thinking about -My mind-父への手紙

新シリーズ作成

今日から日記以外にも自分の考え事とか吐き出すシリーズもやっていこうかなと。
今日で32歳の私です。ハピバ。

オーストラリアに来てからなんか頭が重たくて気が重い。
やっぱ働きたくないからかあーと思っているけど、他にも家がまだ落ち着かない。
てかやっぱりここに定住する気がしてない。なんでかなあ。
とってもいい人と住めているし、いい環境なんだけど。
ちょっと自分の中で原因不明の不安感がずっとあるここ数週間です。

すっかり歳をとるのが嬉しくなくなり、一方でもう歳だとも言い切れない年齢にちょっと嫌気もさすんだけど、
もっとバイタリティー高めて頑張りたいなあ。
という小さな志が最近自分を苦しめているのかな。
ただ好きなことだけして生きるって、気楽じゃないね。
年金とか保険とか老後とかキャリアとか、いろんなことが気がかりで
自由なようで気持ちは全然自由じゃない。
それでも今の生活を維持したいと思うのは、やってみなきゃわからないことを知りたいという好奇心だけで突き動かされているのかな。
1年後の私はどんな顔してどこにいるんだろうか。正直まだ想像できてない。

名誉上司の転機

先日、私の上司といえばで有名な矢葺さんが前職の会社を退社されると言うことでオンラインで飲み会に顔を出して、ちょっとやっちゃんと話してみたら
この前会った時のお前、いいところだった全体を見てバランス取る感じがなくて、良さを感じなかった。と言われ
なんでかなーと思いつつ、心当たりもあり、なるほどな。と
自分的には会社辞めてから、どんどん尖りがなくなってまーるい人間になってしまい、それは面白くなくもあり、大人になっているなとも感じる。
このまま変化を楽しめばいいと思うけど、あの頃の私の良さが消えたと言われるとなんだか悲しくもあり。
なんせ今思うあの頃って、20代で1番楽しくてガツガツして、キラキラもしていた自分だったと思うから。
まさにWork hard, play hardを体現した生活で、健康的な生活とは程遠かったけど、いい波に乗っていた。
楽しくて順調そのものだった。
あの頃に戻りたいかと言われると、うーん。ではあるんだけど、あの頃本気で楽しかったのは本気の事実。
人間としてまともだったかはわからない。笑
まともであることが正義じゃなかったし、今もまともである必要性は感じていないけどさ

話がずれたけど、やっちゃんの転機でちょっと現実に引き戻された感じもあり、自分の本質的な良さを活かせる環境って幸せだよなと久々に思い出したのであった。あの頃がまさにそれだったんだな。

2年が経過

1ヶ月経ったけど、先月父の3回忌が無事に終わり。
日本にいないので何もしていないけど、その日は父を思って泣いた。
時間は苦しみを癒してくれたけど、悲しさはもうこのまま一生一定量変わらないんじゃないかなと思う。
父の命日は17日なので、私の誕生日は父の月命日でもある。
もう2年も父親に会っていないことが信じられないくらい、今でも自分自身の中に父親を感じながら生きているけど、
やっぱり物理的に?面着で会えないという事実は悲しい。
そんな悲しさが、今やっと自分がどのくらいどのように悲しいのか、
冷静に客観視できるようになってきたのが2年の時間の効果かなと思う。
2年前の30歳の誕生日には、まだ父を亡くして1ヶ月しか経ってなくて、
自分がどのくらい悲しい事態に直面しているのか、正直よく分かってなかったと思う。
そして、その中でメキシコへの転職活動を実行し、会社を辞めることを決めるなど、まさに父の2年2ヶ月の闘病生活から解き放たれて、羽が生えたような気持ちと心の軽い感覚だったのを今でも覚えてる。
今思うとあれは、絶望からの反動でちょっとハイになってたんだろうな。

30歳になった時

最近ワーホリでいろんな20代の人と出会って話したりするけど、30歳になってから常々思うのは私は父の闘病生活の終わりというタイミングもあってか、30代は本当に肩の力が抜けて楽でいい。
29歳の終わりまで父の看病や家族との生活で精神的にスレスレだった私には、その全てから解放されて30代を迎えたという転機もあって、
父の癌がわかった27歳の終わりから抱えていた苦しみを全て忘れた開放感と共に30代を謳歌している。
その一方で30代をこのままで終わらせちゃいけないという危機感もあって、一層自分の人生について深く広く考え直すこの2年間。
やはり今の自分は、父がいない人生を強く生きるための修行という側面が大きくて
父あっての今、でしかない。
どんな感情に突き動かされているのか、私の感覚そのものを
ちょうど、2年前の誕生日に、いつかどこかに残そうと思って書いた自分の、特定の誰かではないけど私の大切な人たちにただ書きたくて書いた文章があったから、この2年という節目に、ここに残しておこうかな。
その時の感情をそのまま書き記してあって、書いててよかったなと思う。

30歳の私の跡

ついに30歳!早くなりたかった!
関係各位にいつも本当にありがとう。

先月父が亡くなりまして、今日でちょうど1ヶ月になります。
私の誕生日を月命日にするなんてとことん間の悪い方でした。

2年2ヶ月の闘病生活でした。
家族や大切な人を亡くした人が言う
「実感がない」というやつをただ聞くだけの時はそっかーくらいにしか思わなかったものを、
今思うことは父の肉体は燃えてしまって戸籍も消えてしまったけれど
私のパパという存在は、パパの体が生きていようが死んでいようが
何も変わらず存在していて、ただ、もう声を聞けなかったり、隣にいて肩がぶつからなかったり、頭を撫でてもらえなかったりするのはどのくらい悲しいことなのかがよくわかりません。
わからないけどまだ毎日泣けてきます。

病気がわかって、もう長くないとわかってから、頭も心も常に一定の悲しさがあって、楽しい時もやっぱり辛い、そんな2年2ヶ月でした。
そんな苦しみからの解放と同時に生身のパパに会えない寂しさがこれから続くのだと思います。

私の父はとても男らしい人でザ昭和な価値観で、
令和を生きるギャルの私からすると、は〜?みたいなことも多かったのですが、物事の率直な感じ方や感性は父と同じだなぁと思うことも多くて、
ムカつく時も気が合う時も、親子の繋がりを強く感じてました。

人に分け隔てなく義理堅い人でした。
人の世話ばっかりで自分の世話を後回しにしすぎたね。

私は生まれた瞬間から特別に父に愛されてて、常にパパの愛に包み込まれて生きてきたんだよなぁ〜って、病気がわかるまでそれが当たり前すぎて
ちゃんと感謝を行動にできてなかったことを反省しました。
こんな娘で申し訳ない。
残してくれた手紙には私のことをパパの全てでしたとありました。
私がパパの全てならば、これからパパになり代わり強く生きないといけないね。

多種多様様々なおじさんを心得ていますが、
父に対して女々しさを感じたことが一度もなかったことに、亡くなってからふと気づきました。
父親ってそんなものなんでしょうかね。男らしい人って父のことだったんだー。なんで気付いてなかったのか不思議。

仕事人間でまともな休みは年一回くらいで、毎年初売り前日の大晦日か元日のどちらかだけ。唯一丸一日仕事から解放されて家族で過ごす日だったのに、その日すら大事に過ごしてあげられてなかった。
父くらい仕事漬けなのが自営業では当たり前だと思ってた。
364日は会社に縛り付いてた人でした。やりたいことを成し遂げるような仕事ではなくて、家長としての義務、守るものが大きくて、それを1人で抱え大変な人生だったと思います。
父の助けに何もなれなかったしならせてもらえなかったことは、私の人生の大きな心残りです。
大変な思いを私たち子供にさせたくないという父の強い気持ちに、すっかり甘えるのが当たり前になっていました。

病気を患ってもう手の施しようもないときに
諦めを美化していい人生だったと言うこともできるけど、
父は最後の最後まで本当に諦めず、悔し涙を流して逝きました。
それが父の漢気だったと思うし、
最後に父が開き直っていい人生だったとか言わなかったことは、
父の根性と泥臭さは最後まで病気に負けなかったのだと思えて、心底ホッとしてます。
本人がまだ生きたかった、もう死んでいいなんてちっとも思っていなかった。
だから私は自分が親孝行できたから良しとはしたくなくて、父の悔しさを胸にこれからもっと強くなって生きていこうと思うのです。
だから最期一緒にいれてよかったねという慰めはいらないです。
最期だけ一緒にいるなんて誰でもできるから、それ以上のことができたと思いたい。

ここからは先に親を送った人として、
どうしても伝えたいことを。

親は思っているほどしっかりしていません。
健康管理など、万人が潜在意識に思っている
"どうせ自分はまだ大丈夫"程度にしか考えていません。
癌になる可能性は2人に1人と言われる時代で、
つまり、これを読んでいる人のお父さんかお母さんのどちらかはきっと癌になる、ということです。
そして、特にここ最近私と知り合った人なら、20代で親亡くす人もいるよなーくらいの感覚でしかないと思う。
私もそうだったから。
でも実際に私が、自分の親がまさか80歳にもならず、それどころか50代で死んでしまうなんて
1ミリも思ったことなんてなかったってことを、どうか想像してみてほしい。
そんな人もいるよなーくらいじゃなくて、自分の家族にもその可能性があることを、リアルに感じ取ってほしい。

どうせみんな癌になる、程度に思うかも知れないけど、
癌は誰でもなるからといって簡単な病ではないです。
とても痛くて苦しくて、それを肩代わりしてあげることもできず見守るしかない家族にも大きな苦しみが付き纏います。

父は昔から定期的な検査をしてるから〜と常々言っていて、
私は父の病気がわかる2ヶ月前に会った時に、体調が悪そうな父を心配になりながらも
ただ心配な気持ちを抱えるだけで何も言わず、行動しませんでした。
父はちゃんと健康を気にしてるから大丈夫という思い込みがあったから。

あの時ちゃんと検査に行かせておけば違う今があったかなとか、
今さら思っても仕方ないのだけど、
父の最期を見つめて、どうしてこんな善人がここまで苦しい目にあって早死にしないといけないの?というぶつけようのない怒りと悲しみは、
まだ健康な人に回避して欲しい。
最期は眠るようにという故人の紹介のテンプレがあるけど、
たしかに最後の最後はそうだったけど、
その数時間前までは本人も、見ている家族にとっても拷問のような苦しみの辛い病気でした。

長生きさえすれば幸せなわけじゃないけど、
私が知る同世代のみんなの大半が、一人暮らしで親御さんと離れて生活していて、
年に数回顔を合わせる程度ということを思うと、
親が遠く離れていても健康でいてくれることは、当たり前のように思えて実はとても稀有なことで、
親の健康は、もう大人になった子供がちゃんと管理しないと、後悔したときには遅いのです。

最後に、私のパパから受けた愛情は
常に誰かに愛されてる感覚の源、
いつもある大きな安心感そのものでした。
父が近い未来死んでしまうとわかった告知の時から、
自分が父のいない世界に放り込まれるのが何よりも怖くて不安で、
父がいない世界でどうやって生きていくのだろうという恐怖との戦いでした。
お前たちを残して逝くのが怖いと涙した父の、家族への責任感は愛そのものでした。
昔から高所恐怖症で、その理由が一緒にいる家族が落ちてしまったらどうしようと思うと足がすくむと言ってた父でした。
世界中どこを探しても私にとって一番の父親で、
こんなに愛された娘は私しかいないと思えます。

そして、亡くなって分かったことは
身体は無くなっていても父の愛は続いているということで、
これからも常に愛されて生きていきます。
幸せな人生と何不自由ない暮らしの基盤を残してくれた父に心から感謝しています。

本当は2月で還暦を迎える父と30の私でダブルスコアのお祝いをしたくて、
小刻みに目先の予定を立てて日々その目標を目指して頑張ったんだけど、
11/11の父と母の結婚記念日が最後の目標達成になりました。
これからも私たち家族が始まったこの日をちゃんとお祝いしていくね。

そしてパパが用意してくれた人生を謳歌して、
絶対パパより長生きするよ。

#bigrespectmyfather


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