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頭で考えることは体温低め

頭で考えることよりも、身体の体感の方が豊かさがある。

頭はスピードもあるし、キレもあるし、できる風に見えることが多いけれど、愛が足りないことが多い。体温が低くて、近寄りがたい空気感を漂わせてしまう。だからほかの人が手を差し伸べる隙がなく、突っ走ってしまう。

ふと気づくと孤独になっていて、周囲と距離が開いていたりする。それをまた周囲が無能だからだ、というような解釈をしながら走り続けてしまうと、もう誰も、何も言ってくれなくなる。言ったところで、そのスピーディーな頭に即刻ばっさりやられるだけだから、面倒なのである。口が達者だからね。隙を与えてくれないから。

それは私もさんざんそうだったから、書きながらも心が痛む。今もそういうところが多分にあるし、気を抜くと頭モードがデフォルトになってしまう。そのくらいスピード感があって、アドレナリンがある種の恍惚感を与えてくれてしまうから、それが快感で、それが正義なのだと、思ってしまうんだよね。それが正解で、それ以外は不正解である、みたいな。

そしてふと、自分の孤独さに気付く瞬間があるのだけれど、その寂しさというか絶望に近い深い闇にまっすぐに目を向けるだけのキャパシティーがないから、それをまたスピーディーに回避していく。そしてどんどん闇を深めていってしまう。

それがとても苦しかったし、自信がなくなっていった。何をどんなにやっても、自分への信頼が深まるばかりか、自分の無能さがあらわになっていたたまれずにいた。何をやっても周りのせいにして、何をやっても悲劇のヒロインに自分を仕立て上げて、ひとつも自分自身を生きるということをしていなかったと思う。

自分自身を生きるってなんだよ、と、わかる前に閉じていたからだ。

頭で考えていると、周囲が無能に見えて、実際にそうなっていく。ダメ人間を創り出していく。自分が正で、他人は不正解、という構図でいれば、それはそういう現実が創り出されていくだろう。

周りが無能なのではなくて、自分を許せていないんだよね。自分の無能さをすべてひっくるめての、自分への信頼が薄い。だから周囲を低く見積もることで、自分の存在感や必要性を確認しようとしてしまう。

そしてそれを周囲に求めることで溝が深まって孤独になっていくという構図は、もうこの時代には手放さないと苦しいよね。

一方で身体の感覚は愛に満ちている。
これを思い出せたことで、私の人生の豊かさが取り戻せるようになってきた。次はここの部分を書こうと思うよ。

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